ラグジュアリーと言えばヨーロッパ。そんなイメージは、いま揺らいでいます。もちろん、格式や美意識の体系を築いたのは欧州です。しかし、世界が求める「贅沢」の条件は、もはや形式やブランド神話だけでは説明できない方向へ動き出しています。

 その変化を鮮やかに示すのが、スリランカの高級ティーブランド〈ディルマ〉です。来日したCEO、ディルハンC・フェルナンド氏に話をうかがったとき、私は「ラグジュアリーとは何か」という問いが、思いもよらない角度から更新されていく感覚を覚えました。

来日し、ディルマの紅茶の産地ごとの違いを語るCEOのフェルナンド氏。ワイングラスに入れて飲むと見た目の美しさも堪能できる

 氏は語ります。「1杯の紅茶には20~30枚の若い芽が使われています。若い葉の命は10~14日しかありません。そのわずかな違いを見分けられるのは、人間の目だけです」

 ここで語られているのは、手間暇の話ではありません。自然が刻む微細な時間のリズムのほうに、人の技と感性が寄り添っているという事実です。

 私たちは収益性と効率ばかり追いかけるあまり、「自然がどういう速度で動いているのか」を忘れつつあります。その速度に合わせて働くことは、現代では非効率と見なされがちです。しかしフェルナンド氏は、こうした価値観を反転させます。

 本来の贅沢とは、自然が許す速度に耳を澄ませ、その時間を奪わないことなのではないか。

 この視点を起点にすると、なぜ現在、スリランカをはじめとする非西洋の文化圏から新しいラグジュアリーが生まれているのかが鮮明になります。

 欧州が長く磨いてきたのは、形式美や再現性といった、人が時間を制御し、組み立てるための技術でした。一方、スリランカや日本、アフリカなどの地域には、自然の変化をそのまま受け止め、人が自らのリズムを自然の側へ合わせていく生活文化があります。

 紅茶の手摘みはその象徴であり、効率のためラグジュアリーの中心は「自然の時間」を守る場所へに自然を切り捨てるのではなく、自然が差し出す一瞬を人が丁寧に受け取る行為です。

 フェルナンド氏はこうも語りました。「ビジネスと人を分けてはいけない。自然と人がいなければ、紅茶は存在しない」

ディルマの紅茶はイタリア料理のペアリングのドリンクとしても使われるほど繊細で深みがある

 この言葉には、ラグジュアリーを商品ではなく関係性として捉え直す視点があります。同時に、金融資本がラグジュアリーを投機対象として扱ってきた時代への異議申し立てとしても読めます。摘む人の手、降り注いだ雨、土壌をつくってきた長い年月。贅沢とは、その見えないつながりに敬意を払う態度でもあります。

 この視点は、日本にとっても重要です。日本の工芸、食文化、農業は本来、時間への敬意を育んできたはずです。それを短期的な効率や価格競争のなかで、自ら手放しつつあるのが現状ではないでしょうか。

 スリランカの茶畑で息づく価値観は、かつて日本にも確かに存在していたものです。だからこそ、フェルナンド氏の語りは私たちの感性に響くのです。

 ラグジュアリーとは、自然と人の時間を尊び、そのどちらも粗末にしない文化です。世界が西洋以外の地域に光を当て始めた理由は、明快です。自然の時間を尊重すること。そのゆっくりとした豊かさを、失われつつある過去ではなく、これからの贅沢として再評価し始めたからです。

 「威信」を支えるのは夢や憧れといった非合理的な感情です。ラグジュアリーの研究とは、人は何に心を寄せるのかという、普遍的な問いに向き合うことなのです。

 中野香織/なかの・かおり 富山市出身。服飾史家として研究・講演・執筆・教育・企業アドバイザリーに携わる。青山学院大学客員教授。東京大学大学院修了。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授などを務めた。YouTubeでのスーツ解説レクチャーシリーズも好評。最新刊『「イノベーター」で読むアパレル全史 増補改訂版』(日本実業出版社)。