今日は絶好の息見え日和だ。
息が白く見える日。生きて呼吸している肉体のあたたかさが見える日。わたしはそんな日を息見え日和と呼んでいるのだ。

前回の息見え日和に、ほうとうを食べた。太い麺は息見え日和と相性抜群である。太ければ太いほど良い。
こたつでカセットコンロで土鍋で。湯気があがる。ぐつぐつ。ヒューヒュー。ほうとうの呼吸だ。ほうとうから白い息が見える。あつあつ。フゥーフゥー。わたしの呼吸だ。わたしからも白い息が見える。
うれしくなって思わず笑った。息見え日和にはその笑いまでもが目に見える。それにつられてほうとうも笑いだした。
以前、「笑い方おもしろいって笑うからもっと笑ってほしくて笑う」という短歌をつくったことがある。子どもの頃から、わたしの笑いにつられてみんなが笑うということがたびたびあった。どうやら笑いはうつるらしい。笑いは笑いを誘うのだ。と言っても、わたしは誘うばかりでなかなか誘ってはもらえない。一方通行ふられ旅なのだ。
うつるといえば、あくびである。
病院の待合室で座っていたときのことだ。隣のおじさんが大あくびを一つした。すると、なんということでしょう。その大あくびがわたしにうつったのである。珍しくお誘いを受けたのだ。
壁に沿ってコの字型に置かれた長椅子3つ。おじさんはコの字の書き始め部分に座っていた。そんなおじさんに誘われたわたしはあろうことか、左隣の人を誘ってしまったのである。
それから誘い誘われて次々うつってゆき、結局、待合室にいる全員であくびのリレーをしてしまった。無意識だから誰も気づいていないようだったが、確かにあの日あの場所でわたしたちはリレーチームを結成していた。
2番手で走り終えたわたしには途中から赤いバトンが見えだした。「赤組はやいです!白組がんばってください!」と運動会のアナウンスまで聞こえてきた。アンカーは、向かいの長椅子の右端に座るおばあちゃんだ。がんばれ!おばあちゃん!
ところが、バトンを受け取ったおばあちゃんがしたのはあくびではなく、くしゃみだった。惜しくもゴールテープ直前で見えない白組に追い抜かされる結果となった。
だが、考えてみれば、あくびというのは一種の呼吸である。くしゃみもまた呼吸である。わたしたちは、あくびリレーではなく呼吸リレーをしていたのだ。ちなみに、赤組のタイムは7分ジャストであった。
呼吸リレーを走り終えたわたしの膝はなぜか笑っていた。ふと隣を見ると、おじさんの膝も笑いだした。笑いもやっぱりうつるのだ。
外に出ると、息が見えた。その日も絶好の息見え日和だったのである。
1999年3月生まれ。黒部市在住。歌人。2022年に第1歌集「すべてのものは優しさをもつ」(ナナロク社)を刊行。