おむすびを結んだ。今までなら「おにぎりを握った」と言うところだが、この夏はなぜか「おむすびを結んだ」と言いたい気分なのだ。

 それはさておき、わたしが結んだのは海苔のおむすび、中の具は梅干しだった。梅干しはこの暑い時期には欠かせないパートナーだ。

 おむすびを結んだ翌日、今度は炊きたてのご飯の上に梅干しを載せた。自分でやっておきながら「わあ、梅干しが丸見えだあ」と思った。おむすびとしてご飯と海苔の服を着ている梅干しの姿を知っている身としては、見てはいけないものが見えてしまっているというような感覚になったのだ。

イラスト:yuki narita

 これからはオムライスを見た後にチキンライスを見るときも「丸見えだあ」と思うことだろう。

 そういうわれわれ人間も基本的には服を着て生きている。服というのは体を守るために着るわけだが、今の時期は暑さが厳しく随分と薄着になる。

 秋冬春と、時にはカーディガン、時にはコートで隠してきたTシャツを丸見えにする季節、夏。心なしか街ゆくTシャツたちも恥ずかしそうだ。

 服はいわば自分の一番外側である。したがって、夏とは自分の芯と外界との距離がぐっと近づく季節なのだ。

 芝生に座ることは世界に座ることだ。こんなときハンカチを敷いてから座る人がいる。体を守るために履くズボンやスカート、さらにそれらを守るために敷くハンカチ。やっぱり服は自分の一部で、ハンカチは自分と世界とを繋ぐものなのだろう。

 ハンカチというのは手洗いの後、水気を拭き取るときに使うことが多い。こういった用途はあるものの、元はと言えば布である。別に本人がよければ、そして水分を吸う生地であれば、Tシャツで手を拭いたっていいのだ。

 世の中に存在する布には役割が与えられ、形成され、名前が付けられている。例えば、水着と下着は布の面積は同じようなものだ。役割と生地が違うだけで、それを身につける人、そしてその人とすれ違う人の気持ちが変わるのだ。

 一年の中で最も大勢、水着を着た人間が海に集まってくる季節、夏。わたしはこの暑さではとても海へ出かける自信がない。だが、おむすびを食べれば、もともとは海にいた海苔が自分の腹にいるという状態になる。そのときだけはわたしのお腹は海なのだ。

 でもそもそも人間の体はほとんどが水。海苔を食べなくともそのままで海なのかもしれない。そういえば、人に会うと、海を見たときと同じ気持ちになるような気がする。

 暑くて海に行けない、人にも会えない。そんな夏は鏡の前へ行き、そこに自分自身を映してみるとよい。見慣れた部屋に広がる見慣れない海をあなたはきっと見ることだろう。

しま・ふうか
1999年3月生まれ。黒部市在住。歌人。2022年に第1歌集「すべてのものは優しさをもつ」(ナナロク社)を刊行。