泣く子も黙る週刊文春。出版業界冬の時代にあっても気を吐き続ける。そのスクープは「文春砲」と称され、政界も芸能界も経済界も震撼させる。7月から編集長として記者や編集者を率いるのが、富山市出身の竹田聖さん。編集者人生を振り返り、意気込みを語った。(聞き手・田尻秀幸、撮影・鳥飼祥恵)

——顔出しNGなんですね。「編集者は裏方」という矜持なんでしょうか。

 それもあります。そもそも私が表に立って目立つことが好きじゃない、というのも大きい。記者時代は張り込みをしたり尾行したりもすることから、なるべく顔出しをしない、というのが習い性でもありました。

 過去には社長宅が銃撃されたり、会社が某宗教団体に囲まれたり、色々ありましたしね。

 

——いきなり激しい。富山ご出身ですよね。

 小学生の頃の数年だけ、親父の仕事の関係で名古屋にいましたが、ずっと富山市内でのびのびと過ごしました。サッカーばかりやっていましたね。大学進学で上京しても、サッカーはサークルで続けました。ゼミはアメリカ文学です。

 

——竹田さんは東大出身ですね。そこでアメリカ文学というと翻訳で知られる柴田元幸さんのゼミですか。ミュージシャンの小沢健二さんと同じですね。

 そうです。編集者を志したのは、柴田先生のゼミにいたことと、本をよく読んでいたことが影響していますね。あとサッカーファンなので、文藝春秋のスポーツ雑誌ナンバーも読んでいました。ナンバーに興味があったし、それに、米文学の本も作ってみたいと文藝春秋に入りました。

——学生の頃に週刊文春への思い入れはあったんですか。

 正直に申し上げれば、ないですね。読んだこともなかった(苦笑)。

——最初の配属は希望通りナンバーということですね。そして次が今率いる文春。ナンバーと文春では仕事の色合いが全く異なったのでは?

 文春に配属された最初の年、僕がアシスタントでついた記者がNHKの紅白のプロデューサーの不祥事をつかんで、大きなキャンペーンになった。

 僕はNHKの幹部の家にピンポンしに行ったり、張り込んだり。最後は大騒動になって、警察が動いて、プロデューサーを逮捕するところまで行った。当時の会長も辞めざるを得なくなった。

 

 雑誌の記事一つで世の中や警察が動いたんですよ。僕は下っ端でいただけですけど、自分の仕事で世の中が動く面白さを体感しました。きついけど、楽しかったですよ。

——週刊文春は記者や編集者が毎週会議で企画を5本提案しないといけないそうですね。これはかなり大変なことです。

 人に聞くしかないですよ。ネットの情報は誰かがもうつぶやいた情報。誰も知らないネタを探そうと思ったら、人に頼るしかない。ネットに張り付いていても、後追い情報しか書けません。

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