妻の妊娠を知った翌日、出かける用事があって、手土産を買いにいつものケーキ屋さんに入った。その途端、妻が、気分が悪いと言い出した。すぐに店を出て、近くのコンビニのトイレに駆け込む。店内のケーキの匂いをかいで具合が悪くなったらしい。出かけるのは取りやめて、家に帰って休むことにした。スイーツが好きな妻。いつも入っている店でこんなふうになったのに驚く。これがつわりというものなんだろう、とすぐに思い至った。

 それからしばらく、妻は臭いに対して異常に敏感になった。スーパーでも、鮮魚のコーナーには近づけない。車の中の臭いもだめだ。車内を徹底的に掃除したが、それでもまだ臭うというので、カーナビやエアコンを養生した上で、バルサンタイプの消臭剤をたき、それから「無香空間」の特大ボトルを置いて、ようやく妻を乗せられるようになった。

 そうこうするうちに、病院でお腹の子の心拍が確認された。これで初期流産はほぼ無い。安堵するとともに、あらためて喜びがこみあげてきた。

 そこでさっそく、グループホームに入居している私の母を二人で訪ね、妊娠のことを報告した。母にとっては初孫の報せであり、驚くとともに、たいそうな喜びようだった。それを見て、妻も涙ぐんだ。ところが、母は認知症のため、すぐにそのことを忘れてしまい、二日後にまた訪れてその話をすると、再び驚き、再び喜んでいた。何度も話すうちに、少しずつ受け入れ、理解してゆくだろう。

 お盆を迎える頃、妻は、不妊治療をした病院での最後の診察を受けた。お腹の子は活発に手足を動かし、踊っているようだったという。それから後は、地元の総合病院で診てもらうことにした。総合病院の初診で撮ったエコー写真では、もうはっきりと人の形をして、気持ち良さそうに仰向けに寝ているように見えた。

 高齢出産となるため、医師から、羊水検査を希望するかどうかを訊かれた。妊娠の段階で子どもの染色体異常の有無を判定する検査で、高齢出産の場合に異常の発生する確率が比較的高いといわれている。羊水検査で染色体異常が判明した場合、九割の人が妊娠中絶を選ぶと聞いた。子育ては厳しい現実であり、きれいごとだけで済まないのはよくわかる。

 けれども私は、あらかじめそれを「知る」ことそのものに違和感を覚えた。子どもの先天性異常を前もって知りたいという欲求の中には、生命の尊厳そのものに関わる、難しい問題があるように思えた。エコー写真に写る子どもの姿に愛おしさをかみしめながら、私たちは、羊水検査は受けないという意思を確かめ合った。

もうひとつの鼓動が妻の中にある 赤き宇宙で鰭(ひれ)打つ者よ

 秋が深まる頃、お腹の子は女の子だとわかった。妻は安定期に入った。結婚式でもお世話になった地元の神社に、安産祈願のお参りをした。頭(こうべ)を垂れて、神主さんの祝詞を聞きながら、妻は泣いていた。私は、目に見えぬ大きな力への、畏れと感謝とを思った。

 

高島 裕さん

◆高島 裕(たかしま・ゆたか)◆
1967 年富山県生まれ。
立命館大学文学部哲学科卒業。
1996年「未来」入会。岡井隆氏に師事。
2004 年より8年間、季刊個人誌「文机」を発行。
第1歌集『旧制度』(第8回ながらみ書房出版賞受賞)、『薄明薄暮集』(ながらみ書房)などの著書がある。
第5歌集『饕餮の家』(TOY) で第18 回寺山修司短歌賞受賞 。
短歌雑誌『黒日傘』編集人。[sai]同人。
現代歌人協会会員。