富山市ガラス美術館の土田ルリ子さんは、今でこそ館長として組織のトップに立つが、キャリアのスタートは学芸員ではなかった。お茶くみや事務を担う「女子館員」だった。男女雇用機会均等法の過渡期に直面した「男女の壁」、そして40代で患った乳がん――。数々の試練を乗り越え、50歳で東京から富山へ新天地を求めた。(聞き手・田尻秀幸)

美術館との運命的な出合い

――美術館の学芸員を志したきっかけからお聞かせください。

決めたのは随分遅かったんです。大学3年の夏休みにニューヨークでホームステイをしました。コロンビア大学のキャンパスを借りた英会話プログラムに参加していたのですが、当時の日本と違って、土日は完全に休みになってしまう。開いているのは美術館か映画館くらいでした。

 

それで、いろいろな美術館を巡っているうちに「美術館で働く人ってどんな人なのかな」という興味が湧いてきたんですね。帰国してから学芸員という資格があることを知り、まるで呼ばれたように、その道を目指すようになりました。

私は津田塾大学に通っていたのですが、学芸員課程がなかったので、大学院から慶應義塾大学に進み、学部生に交じって博物館学をいちから学びました。大学院の授業よりも、学芸員資格を取るための授業の方が多かったくらいです。

 

――小さい頃から、美術館で働くことを夢見ていたわけではなかったのですね。

お恥ずかしい話ですが、あまり明確な夢はありませんでした。小学生の頃はスイカが好きで、日本地図で産地を見て「千葉のスイカ農家のお嫁さんになりたい」なんて言っていたそうです。実家は税理士で、サラリーマン家庭ではありませんでした。大学時代はバブルの頃で、同級生たちは大体、銀行か商社に就職していきました。でも私は、どうしても会社で働くイメージが湧かなくて。

「女子館員」という身分

――サントリー美術館への就職は、どのような経緯だったのでしょうか。

美術館の求人って限られているんですよ。誰かが退職しないと空きが出ない。今はそんなことはないと思いますが、当時は公募があっても実は既に候補者が決まっているケースもありました。サントリーには、慶應の先輩の紹介で話を聞きに行ったんです。ですが、「ごめんね、うちは女子を取らないんだよ」と言われました。でも、その方が親切な方だったので「お話を伺えただけでありがたいです」なんて言って帰ってきたんです。

そうしたら後日、「たまたまサントリーの女子館員の募集があるんだけど、受けてみるかい」と連絡をいただきました。ご縁をいただき、1992年から勤め始めました。

――「女子館員」とは、具体的にどのようなお仕事だったのですか。

お茶くみにコピー、それから美術館の受付。監視に入ったり、ショップで販売したり、伝票を切ったりといった事務作業と、お客さんの前に出る作業をしながら、学芸員の補佐をするという仕事でした。

当時は3人チームで一つの展覧会を担当していて、男性学芸員を女子館員2人でサポートするんです。そういう仕事をしながら、受付にも入り、監視にも入り、ショップでもグッズを売る。かなり変な仕事ですよね。今だとちょっと考えにくいと思います。


――土田館長は1992年から働き始めたわけですから、雇用機会均等法が施行された後の時代ですね。

ええ。でも、美術館では制度が整備されていなくて、産休もありませんでした。当時の先輩女性たちも「お嫁に行くまでの仕事」という感覚の方がほとんどで、本当に美術館で働き続けたいという人はほぼいませんでした。

――土田さんは院卒で初めての「女子館員」だったそうですね。

それが癪に障ったのか、先輩たちからは顎で使われることもありました。でも、学芸員っぽい仕事もちょこちょこやらせてもらえたりして。「作品解説を書いて」とか言われると、喜んでやっていました。私が一番最初に書いた作品解説は、「見返り美人図」で有名な菱川師宣の版本についてでした。私は大学院でアールヌーヴォーを専攻していたから、全然専門じゃないし、わけがわからない。本当にただの資料の「コピー・アンド・ペースト」みたいなものを書いただけでした。でも、うれしかったですよ。

餌を与えられるように

――格差の中で仕事を続けられたのはなぜでしょう。

2015年、サントリー美術館で展示作業する土田さん

正直、最初は本当につまらなかった。「いつかやめてやる」と思いながら働いていました。でも1997年にサントリー美術館が個人コレクションを買い取って、ガレのコレクションが70点ほど一気に増えた時期があったんです。

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