戦後80年は、原爆投下から80年でもある。この節目に、あるジャーナリストの仕事と生きざまが脚光を浴びている。全国の被爆者を訪ね、千人以上の「証言」を収集した伊藤明彦(1936~2009年)だ。高岡市出身で長崎在住の編集者、西浩孝(43)は昨年末、絶版状態だった伊藤の著書「未来からの遺言」を復刊した。WOWOWのプロデューサー、松本太一(34)は同著に衝撃を受け、NHKでのドラマ化にこぎつけた。伊藤の遺志に導かれるように、同じタイミングで復刊とドラマ化が実現した。(田尻秀幸)

8月13日放送のドラマ「八月の声を運ぶ男」 写真提供NHK

 退職金で録音機

 伊藤明彦は長崎放送の記者だった。被爆者の証言を紹介するラジオ番組を担当していたが、社内異動で外された。会社に反発した結果、1970年に退社。「オープンリール」という重さ10キロ以上ある録音機を退職金で買い、アルバイト生活を送りながら北陸を含む全国の被爆者を訪ね歩いた。

 

長崎放送時代の伊藤明彦さん(1960年代) 写真提供 NPO法人 被爆者の声

 生活と取材を支えるアルバイトは夜警や皿洗いなど早朝・深夜に行う過酷なものだった。当時の生活に触れて、伊藤はこう表現している。「さしあたりの生活において、自分より貧乏な被爆者にあったことが私はありませんでした」

 約8年間で千人余りの「声」を収集し、その体験を著書につづった。録音テープは全国の図書館などに寄贈した。晩年に業界内で表彰されることはあったが、著書は絶版状態。知る人ぞ知る存在だった。

いきなり電話1時間

 2017年。西浩孝は長崎の新古書店の郷土本コーナーで「未来からの遺言」を偶然手に取った。500円の値が付いていた。東京の出版社で勤めていたが、研究者の妻が長崎大学に赴任することになり移住したばかり。フリーランスの編集者として仕事を引き受けながら、ひとり出版社「編集室 水平線」を立ち上げるところだった。バスの中でページをめくるうちに「この本は普通じゃない」と興奮した。被爆者への取材と考察の深さに驚いた。

「未来からの遺言」を復刊した高岡出身の西浩孝

 同著は、伊藤が長崎で出会った被爆者の男性を描いたノンフィクション。男性が語る体験談は詳細に富み、胸を打つものだったが、釈然としない点もあった。伊藤がたどり着いたのは、男性の記憶に複数の別人の被爆体験が重なっているという洞察だった。しかし、男性を批判することなく、被爆を語ることが人間らしさを取り返そうとする意思の表れと捉えた。被爆者と対話して得た思索の奥行きが、この一冊を原爆と人間の関係を問い直す哲学的な作品に押し上げていた。

 西は関係者に連絡を取り、他の著書も読んだ。世に再び送り出す価値のある人物だと確信した。資料を集め、仕事の全貌を紹介したいと考えた。長崎に移り住んだからこそ、作れる本だと思った。 

ドラマ化したプロデューサーの松本太一

 同じ年、松本太一は「未来からの遺言」の存在を偶然SNSで知った。変わり者扱いされ、葛藤しながらも証言を集め続ける伊藤の姿に圧倒された。被爆者が次々と亡くなる中でその活動の重みを感じた。1970年代を舞台にするために要する制作費の問題と、テーマの繊細さに困難を覚えつつも、ドラマ化するきっかけを探した。西が本の復刊を進めていることを知り、連絡した。初めての電話で1時間も語り合った。

10年かけて

 西は昨年末から伊藤の仕事を10年かけて全6巻シリーズで刊行する計画をスタート。「編集者人生最大の仕事」と熱を込める。「未来からの遺言」が皮切りで、これを基に書いたシナリオと合本にした。

西が手掛けた「伊藤明彦の仕事 1 未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記/シナリオ 被爆太郎伝説」

 戦後の節目というタイミングを狙ったわけではなく、他の仕事との兼ね合いもあったし、資料収集を優先した。「伊藤さんは生きていたら80代後半。関係者が同世代だったと思えば、時間が過ぎるほど資料が手に入りにくくなる」

 シリーズには伊藤の歌集や、証言の音声記録を活字化したものを含む。「ある世代以下になると、マスコミ関係者ですら伊藤さんの仕事を知らない。放っておいたら埋もれてしまう。可能な限り網羅的に残したい。伊藤さんについて分かることを全部盛り込みたい」という使命感だった。

本木の役作り

 松本も企画を通した。「未来からの遺言」を基に、西の取材協力も得て、伊藤をモデルにした「八月の声を運ぶ男」(NHK総合、8月13日放送)を制作した。松本は「運命論者ではない」と言いつつも、個人の力を超えた大きな流れの中でドラマ化が実現したという感慨がある。「企画者ではなく、伊藤さんの媒介者として役割を果たしただけ」と謙虚な姿勢を示す。

「八月の声を運ぶ男」の場面写真。関係者が「伊藤とそっくり」というほど、本木雅弘は迫真の演技を見せる。写真提供NHK

 ドラマ作りは伊藤への深い敬意を持って臨んだ。冒頭と終盤には、実際に伊藤が録音した被爆者の音声も使った。主演を務める本木雅弘は撮影前に長崎を訪れ、

残り817文字(全文:2899文字)