伊勢型紙をご存じでしょうか?
三重県白子(しろこ)を中心に発展した、日本を代表する伝統的な染色用の型紙です。室町時代に起源を持ち、着物の文様を染めるために用いられてきました。特に江戸時代には武士の裃(かみしも)や町人の小紋柄を染める技術として高度に分業化されました。
素材には美濃和紙を使い、数枚を貼り合わせた上に柿渋、漆を塗り、防虫・防腐処理を施し強度を高めます。そこに職人が一枚一枚手彫りで文様を彫っていくのです。

文様の種類は、幾何学、草花、抽象など多岐にわたり、知的な抽象性も帯びる日本的なデザインのバリエーションは華麗そのものです。今見ると芸術ですが、当時は「型紙は生地を染めるための道具」としてしか認識されていなかったので、作者の名前が残っていません。なんという贅沢な「道具」でしょうか。

この美しさに魅了されたばかりに思わぬ第二の人生を始めた人もいます。高橋完治さんです。半導体メーカーでLEDのセールスエンジニア兼責任者として仕事をしていましたが、2005年、三重県白子の資料館で伊勢型紙と出会い、運命が変わります。和紙のレリーフを光にかざすとレースのように文様が浮かぶ。これほどの傑作が眠っていることに驚き、その迫力に「圧倒された」高橋さんは、「定年後はこれを光と融合させたい」と決意し、準備を進め、08年に起業するに至りました。
織師の故・鈴木苧紡庵(ちょぼうあん)氏(重要無形文化財に認定された越後上布の第一人者)から江戸末期の伊勢型紙4千枚を一括で譲り受け、アーカイブをLEDで照明化しました。光を透過して浮かび上がる繊細な文様は、空間を一気にドラマティックに変貌させます。和倉温泉「加賀屋」にも「5年、通い詰めて」、照明が採用されました。

半導体業界から伝統工芸&アートの世界へ。畑違いにも見えますが、実はこれまで扱っていたLEDの技術を伝統工芸に移植しているので、キャリアの蓄積を新領域に掛け算しただけ、と見ることもできます。人生100年時代、「キャリアの第二章」をどう生きるかが問われる今、LEDの技術者から伊勢型紙の灯りをつくる人へという高橋完治さんの「転身」は、その問いに対する一つの答えにもなっています。
もちろん、その道は決して平坦ではありません。伝統工芸を取り巻く環境は厳しく、着物文化の衰退や後継者不足に加え、価値を見出した海外バイヤーによって伊勢型紙が海外に流出しているという現実もあります。7万点あった型紙のうち、約2万点がフランスに流れたともいわれています。対する国内では、工芸に対する評価軸が未成熟なままで、文化財の持つ文脈や背景が軽視され、単なる意匠の断片として消費されかねない危うさもはらんでいます。
それでも高橋さんは、伊勢型紙に潜む美と技を光で可視化し、現代の空間へとつなぎ続けています。灯りのほかに、陶器や織物とのコラボも展開しています。
再生とは、かつてあった価値をそのまま復元・保存することではなく、新たな接点を創造することでもあります。高橋さんの灯りが宿す静かで華やかな輝きは、そんな再生のかたちを私たちに教えてくれます。文化の創造は個人の挑戦から始まるということも。
中野香織/なかの・かおり 富山市出身。ラグジュアリー文化を主な対象として取材・執筆・講演・教育・企業アドバイザリーに携わる。東京大学大学院修了。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授などを務めた。著書多数。日本の伝統や卓越技芸をラグジュアリー文脈の中で扱うJ-LuxeSalonでアドバイザーを務める。2025年6月、『「イノベーター」で読むアパレル全史 増補改訂版』(日本実業出版)発売予定。