富山のフランス料理店の草分けとして知られる「レストラン小西」(富山市)のオーナーシェフ、小西謙造さんは数々の料理人を育て、送り出してきた。その足跡は「富山の食」に大きな影響を与えてきた。半世紀以上にわたって愛されてきたレストランの歴史に今夏幕を下ろす。人柄がにじむ冗談を交えながら、料理人人生を振り返った。(聞き手・田尻秀幸、撮影・竹田泰子)

——「レストラン小西」開店から55年。残念ながらこの夏で閉店されるそうですね。

 黙ってフェードアウトするつもりだったんだけど、情報って漏れちゃうんだね(笑)。本当は7月14日のパリ祭の日に店を閉めて、そのままフランス旅行するつもりだった。それから、お客さんに案内すればいいやって思っていたんだけど、オリンピックがあるでしょう? そんな時に行っても大変なだけ。それで仕方なく、8月の頭までやることにしました。

 

——閉店を知った方は驚いたでしょう。

 一緒に働いてくれた仲間がね、連日食べに来るんですよ。来るなって言っているのに。でも、正直うれしいね。

——「弟子」とは言わずに「仲間」とおっしゃるんですね。

 弟子は1人もいない。仲間ならいる。僕は大したことを教えていないもん。それでも、一緒にやってくれていたんだから仲間ですよ。

 

 自分の商売敵を増やしたと言う人がいるけど、そう思わない。だって僕から見れば開店当時の富山なんて、西部劇の荒野みたいなもの。店はぽつんとある交易所みたいなイメージ。今みたいに食材の宅配も当たり前じゃないし、バゲットも焼いてもらえなかった。欲しい食材があっても言葉も通じないような時代です。

 それに、うち1軒だけだと「オールフランス料理」をやらないといけない。でも、他にも特徴ある店ができたら、うちならではの専門性も出せるしね。だから、近場に仲間の店ができたのはメリットだらけ。

——料理を始めたきっかけは。

 父は東京・神田の生まれで、ホテルのコックをやっていました。小西のルーツが富山にあった関係で、旧制富山高校の寮の厨房に父が呼ばれたんですよ。それと前後して、飲食店を始めたんですね。だから、僕は料理屋のせがれ。料理の世界しか知らない。家庭の味はハヤシライスとかオムライスとか。弁当箱をのぞいては、同級生や先生が珍しがっていましたね。お煮しめを頂くのは、親戚の家でお祭りがあった時くらいでした。

 

 僕は8人きょうだいの末っ子で長男。いずれ家を支えないとと思っていました。だから中学生の頃から店を手伝っていましたよ。チキンを焼いたり、エビの皮をむいたり。

——東京の大学に通いながら修業したそうですね。

 大学には行ったけど、当時は学生運動の真っ最中。授業はまともになかった。だから大学1年の時からホテルへ鍋洗いに行きました。それに料理の仕事なんて大学を卒業してから始めてもちょっと遅いでしょう?

 

  父親のつてで、大学に籍を置きながら仕事をしていました。しばらくして、六本木のフランス料理のレストラン「ワールド」に移りました。首相官邸の料理長をしていたような名だたるシェフがいたんですよ。そこで下働きした。

——大学卒業後すぐに富山で店を始めました。どうしてですか。

 海外に行く話もあったけど、親父の体調が悪かったんですね。そこで富山に戻っていきなり自分の店を始めました。だから、僕は経験が浅い。料理人としてはコンプレックスしかないですよ。

 

 

 でね、当時の富山で西洋料理というと、ハンバーグやエビフライくらい。でも、僕は何も知らないで富山を出て、フランス料理バリバリの店で働いていたから感覚がズレている。前菜とメインディッシュ、デザートが出るというお店が当たり前だと思っていた。「ここで恋人とデートしたい」というお店を作りたかった。

——順調でしたか。

 大変でしたよ。

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