豊かさって何でしょう。過去の人々も追求してきた永遠のテーマです。単一の正解など存在せず、人の数だけ答えがあるでしょう。問いそのものが無意味と一蹴されることも少なくありません。一方、人生を賭けて答えに近づこうとする人もいます。そのような人はしばしば、不本意ながらこの問いに向き合わざるを得ない状況に陥り、絶望の淵から希望を見出そうと模索する過程のなかで、その人なりの答えをつかみとります。スリランカでアーユルヴェーダを施すリトリート型のホテルを経営する伊藤修司さんもその一人です。

伊藤さんは子供のころ「国境なき医師団」に感動し、発展途上国の人々を支援したいという思いから医学部に進学しました。しかし、医療活動を支えるには経済の仕組みをつくることが必要と気づき、医学部を中退して経済学部に入りなおします。卒業後はグローバル大企業P&Gに入社してマーケティングを担当した後、「途上国から世界へ通用するブランドをつくる」マザーハウスでブランディング統括をおこなうなど、ビジネスの第一線で活躍していました。
異変が起きたのは29歳の時。原因不明の難病「多発性硬化症」に襲われます。確かな治療法がない中で4年間、入退院を繰り返しながら薬の副反応に苦しみ、希望が見えない時間を過ごします。現代医療の限界を感じていた矢先、スリランカでアーユルヴェーダに出会いました。
アーユルヴェーダと聞くとエステサロンのトリートメントが連想されがちですが、本場のアーユルヴェーダは、長期間にわたり、生活のすべてから身体を整えていきます。民間療法ではなく、スリランカやインドでは国家資格を有する正規の医療と認められています。西洋医学のように表層の症状をおさえこむのではなく、施術、ヨガ、瞑想、食事、ハーブ、哲学、宗教を通して深層にアプローチし、「生きること」すべてをケアします。
1か月ほどアーユルヴェーダを受けた伊藤さんは劇的に回復し、「生きている感覚」がよみがえるという奇跡を実感します。助けようと思っていた途上国の伝統医療に助けられた伊藤さんは、この体験を多くの人と分かち合うと決め、スリランカで起業し、ホテルをつくるに至るのです。名前は「Tagiru.」。泉から水が湧き上がるような「たぎる」感覚という意味がこめられています。開業準備中にコロナ禍に見舞われるという困難も乗り越え、2022年に「Tagiru.」はオープン、ドイツやスイスを筆頭に、世界各国からゲストが訪れる多文化施設として知られるようになりました。

「もともと医学部を志し、遠回りしたものの医療施設を経営するに至ったことに運命的な導きを感じます」と伊藤さんは話します。伊藤さんの起業ストーリーは、不本意なできごとに翻弄されて奈落に落ち、そこから這い上がるなかで本来の自分と人類を救うお宝をつかみとり、元の世界へ戻ってくるという神話的な「英雄の旅」そのものです。唯一無二の個人的な体験ながら普遍性のあるストーリー。
そのストーリーを通じて伊藤さんが私たちに共有してくれるお宝は、心は満たすものでも火をつけるものでもなく、たぎるもの、という発見です。本来の自分に戻ることで、泉から水が湧くように、たぎる。その渦のようなエネルギーから創造が始まります。ここに気づき、行動する伊藤さんの奮闘の過程そのものに「生きることの豊かさ」のヒントを見る思いがします。