日本酒の年間製造量はピークだった1970年代の4分の1まで落ち込む。逆風が吹く中、酒蔵の事業承継に取り組む日本酒キャピタル(東京)の田中文悟社長は不振にあえぐ酒蔵にノウハウを提供し、経営改善に取り組む。2022年には魚津酒造(旧本江酒造)を傘下に収めた。軽妙な語り口には「街から酒蔵の灯を消さない」という信念をにじませる。(聞き手・田尻秀幸、撮影・竹田泰子)
 

——元々はアサヒビールの営業職でしたね。どんな毎日だったんですか。

 今も楽しいけど、ビールの営業もエキサイティングでしたよ。例えばある 焼肉チェーンを担当していたんですが、同じ日に4店が同時オープンするんですよ。取引先ですから全てに顔を出します。

 当然お酒も食事も頂きます。売り上げは自分で稼がないといけませんから。でもチェーン店だからテーブルに並ぶものが全部一緒(笑)。おいしいんですけどね。あと1日で大瓶1ケースを空にすることもありました。冗談とはいえ、健康診断の結果が悪い方が褒められるというおかしな日々でした。

 

——大きな会社を辞めて日本酒業界に足を踏み入れたのはなぜですか?

 アサヒビールには全国の酒蔵から修業に来る若者がたくさんいるんですよ。3年ほど営業の仕方などを研修するんです。入社6年目あたりの社員が彼らを指導するんですが、私に付いたのが青森の酒蔵から来た子でした。彼が日本酒業界の散々な状況を説明し「ビールメーカーで活躍する人が業界に入ってくれたら面白くなる」と誘惑してくるんです。20歳そこそこの若者の言葉を真に受けてしまった(笑)。

 退社を決断したのが29歳。ちょうどアサヒビールも中途でたくさん人材を採り始めていて、「このままではエスカレーター式には出世できないぞ」という危機感がありました。社長になってみたいという思いもありましたしね。

 

——アメフトのクラブチームの司令塔として日本一も経験したそうですね。営業とアメフトの二足のわらじは大変でしょう。

 選手は70人いたけど社員は7人だけ。会社がスポンサーなだけで、寄せ集めのクラブチームなんです。練習はみんなの仕事が終わった後。仕事は仕事、アメフトはアメフト。アサヒビールの社員だろうが、全然優遇されない。

 練習は午後8時半から11時半まで。仕事終わってからの練習ですよ。だから営業先でお酒を飲んでからグラウンドに行くこともありました。本当はダメですよ(笑)。

——アメフトの経験は今も生きていますか。

 アメフトって分業制なんですよ。サッカーとか野球って運動神経が良くないとダメでしょう? でも、

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