木箱にぎゅうぎゅうに詰まったたこ焼き。だしの利いた生地をソースだけで味わう。食感はやわやわ、ほんのりカレーが香る。半世紀以上にわたり富山と射水で営業する「山長(やまちょう)さかい」の昔懐かしい味だ。
繁華街とともに
かつてスクランブル交差点に面した旧富山大和の角にあり、繁華街と歩みをともにしてきた富山の西町店を訪ねた。富山大和の移転と跡地の再開発を受け、現在は富山市西町のみどり通りにある。

店に立つのは2代目の境健彦(たけひこ)さん(60)。生地を水で溶き、たこ焼き器に流し込む。「水の加減は混ぜた時に手にかかる重さで判断しとる。だから教えようにも教えられんが」。そう笑って、手際良くたこ焼きを焼いていった。

少々の薬味が味の決め手
健彦さんは手を動かしながらよくしゃべる。「簡単そうに見えるでしょ? でもね、大変なのは生地の仕込みなんですよ。生地には12種類の薬味が入っとる」

生地は前日に仕込む。12種類の薬味はカレー粉、砂糖、塩などがあり、「親父が調合した薬味」もごく少量混ぜる。この薬味は干しシイタケなどが入っているが、詳細は秘密だ。
健彦さんは「大量の生地に対して、入れるのはホントにちょっとだけ。でも、入れないと味がぼやっとする」と話す。たこ焼き器にこの生地を流し込んだ後、ネギや天かす、干しエビ、刻み昆布、タコを加える。
あのヒット曲で大行列
山長さかいの本店は、射水市桜町(新湊)にある。健彦さんの父政吉さんと母チヱ子さんが、1968(昭和43)年に射水市(当時は新湊市)、71(昭和46)年に富山市西町で店を開いた。たこ焼きもたい焼きも、試行錯誤の末にたどり着いた山長さかいならではの味だ。

たい焼きは、甘さ控えめのあんが頭からしっぽまでぎっしりと詰まっている。ただ、開店当初、たい焼きは全然売れなかった。「だから、たこ焼きを買った人におまけでたい焼きをプレゼントしていた」と健彦さん。
こうした状況が一変したのが1976年ごろだ。子門真人さんの歌った「およげ!たいやきくん」の大ヒットがきっかけで、たい焼きの人気に火が着いた。

たい焼きは売れに売れた。店の前に列がつき、4~5坪の小さな店の中で10人近くがぎゅうぎゅうになって働いた。健彦さんは「店はかっちゃかちゃ。異常なくらい売れとった」と懐かしむ。「親父とお袋にはたこ焼きとたい焼きの商売で、大学まで出させてもらった。何事も一番最初に始める人はすごいよ」と感謝する。
女心と青のり
実は開店当初、たこ焼きには青のりが付いていた。歯に付くのを嫌がる女性客の声を受け、途中から青のりをやめた。富山店のあるスクランブル交差点は繁華街で、ここに来る時はおしゃれして出かける人も多かった。デートの人もいただろう。そんな女心に寄り添った。

バブルの頃には、富山の店は深夜2時まで営業していた。飲食店勤務の女性が仕事を終えた後、男性客にたこ焼きを買ってもらう姿もよく見かけた。「男性客は1万円札を出して、お釣りを女性に渡しちゃう。だから女性がお客さんを連れてよく来ていたね」。健彦さんは懐かしそうに笑う。
いつも笑っていた兄
健彦さんは小学校4年生の頃から店を手伝い、たこ焼きも焼いていた。「わし器用やったん。店を継ぐのも嫌とか全然思ったことないよ」。大学卒業後から店に入り、1990年ごろ、病を患った政吉さんから店を任された。
3歳年上の兄の雅彦さんも富山の店で店頭に立った。「いつも笑っとったね」と健彦さんは振り返る。雅彦さんはことし5月、病気で亡くなった。

大病と手術、多額の医療費
順調なことばかりではなかった。