ミシンで服がスピーディーに縫えてしまう時代に、手縫いの重要さを説き、手縫いの技術を伝え続けている人がいます。

 那覇市に「熊谷和・琉裁きもの専門学院」を構え、院長を務める熊谷フサ子さんもその一人。昭和18年沖縄生まれ、東京で和裁の修業を積んだあと、昭和44年に学院を設置、以後、大学院での学問も並行しながら手縫いの研究を続け、平成26年には「現代の名工」に認定されています。80歳になる現在も沖縄県のいくつかの団体の代表理事や委員長を務めていらっしゃいます。

左は那覇市歴史博物館収蔵の「オゥバシャー・黄緑地芭蕉衣裳」のミニチュア摸作品、右は通常の二部式スタイルの和服上衣のミニチュア

 和服と琉服は形も思想も違います。琉服とは和服から見た呼び方で、沖縄ではジェンダー・年齢問わず服はすべて「チン」と呼ばれ、仕立て屋は「チンノーヤー(チンを縫う人)」と表現されます。フサ子先生はチンにも和服にも詳しいのですが、ここでは「手縫い」の現代性という点に焦点を当てます。フサ子先生が語る手縫いのメリットは大きく分けて三つあります。

 まず、サステナビリティという観点からの長所。手縫いだと布を元に戻すことができ、リメイクがしやすくなります。とりわけ和服は完成された構成で、手縫いの糸を外せば反物になり、次の世代へ引き継ぎやすくなります。衣類の大量放棄が地球環境汚染の原因となっている現代において、上質な織物で作られた手縫いの服を着て、リメイクして生かし続けることは、日々の幸福感を生むだけでなく倫理にもかなうのです。

 次に、手作業がもたらすスピリチュアルな効果という観点からの長所。縫うという作業は、邪気を払う効果をもたらすそうです。縫い手の心を「無」にするだけでなく、服を着る人を守る力も発揮します。たとえば、子どもの乳歯は本来、下の歯が先に生え、上の歯が後に生えますが、まれにその順序が逆になる場合があります。その場合、周囲が「これはたいへん」と糸を集め、一日で簡単な服を作ってその子どもに着せることで邪気を追放します。お祓いのようなこの種の服には「ピーケーチン(一日で運命を変える服)」という呼び名まであります。

 三つ目は、ワークライフバランスという観点から見た長所。布と糸と針さえ持っていけば、旅行中でもどこでも仕事が可能、つまり手縫いはリモートワークに最適な仕事なのです。作り上げた成果で評価されるので、自分の時間を自由にコントロールすることができるという意味で新しい働き方に最適。もちろん、仕事の成果が次の仕事を呼ぶ「営業」の働きをするので、常に次の注文を呼び込むような最高の仕事をし続けることが大前提となります。

 考えてみれば、昔から人間の生活はこのような手作業とともにあったわけですが、大量生産・大量廃棄の時代が行き着くところまで行き、一巡して、時代があらためて手作業のクラフツマンシップを「新しいラグジュアリー」として再評価している次第です。

 その間も半世紀以上、腰を据えて手縫いを続け、メールアドレスに「unshin(運針)」という言葉を入れるほどの筋金入りのチンノーヤーであるフサ子先生は、新しいラグジュアリーと言ってもきょとんとして、「老人の介護施設での手すさびにも、運針はボケ防止になって最高ですよ!」と笑うのでした。

中野香織/なかの・かおり 富山市出身。服飾史家として研究・講演・執筆を行うほか企業の顧問を務める。東京大学大学院修了。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授などを務めた。著書多数。最新刊『英国王室とエリザベス女王の100年』(君塚直隆氏との共著、宝島社)発売中。