三月三日。妻の実家で四時間ほど寝て、朝六時に病院に行く。妻は一晩眠って少し元気になったようだが、陣痛は進まず、先が見通せない状況だ。妻は私に仕事へ行けと言うが、放って行けるわけもなく、職場に、また心配している私の姉にも、長引いている旨、電話連絡する。
昼頃になって、ドクターの判断により、陣痛促進剤を少量から投与することになった。すると、途端に陣痛が格段に強くなり、間隔も狭まってきた。妻は、昨日遠くに聞いた声と同じように激しくうめき、痛みを訴える。そしてナースに呼吸法を教わりながら、声に出して懸命に息を吸い、吐く。私はそれにタイミングを合わせて、持参したテニスボールでお尻を強く押す。それをしばらく繰り返し、何度かの診察を経て、いよいよ分娩室に移された。私と、妻のお母さんが付き添う。
かねてから私は、男には想像することの難しいお産の現場に立ち会って、落ち着いて対応できるかどうか不安に思っていた。けれども、いざ現実になってみると、とくにおろおろすることもなく、妻に寄り添えている自分に気付いた。それは私自身の精神力などではなく、ひとえに、ドクター、ナースほか医療スタッフの皆さんが、明るく、手際良く、沈着に処置、対応してくださったおかげである。
分娩台に乗った妻の背中を、ナースと一緒に支え、いきみを支援する。何度か繰り返すうちに、ドクターが「頭が見えてきたぞ」と言った通り、私の立っている後方からも、赤ちゃんの血に濡れた頭髪が見えてきた。いよいよ産まれる。ドクターが、飄々と手馴れた様子で、麻酔、切開する。そして、午後三時過ぎ、私たちの娘・琳が、しっかりと産声を上げて、取り上げられた。かねてから私は、お産の映像などを見て、産後すぐの赤ちゃんはみんな、猿のようなしわくちゃな顔をしているものと思っていたが、娘は生まれたなりからしっかり人間の顔をしていた。
紛れなくにんげんの子が現れぬ、映像よりも姿清らに

胎盤が取り出され、ドクターが、切開したところを手際良く縫合する。私は、お産という人生最大の仕事を成し遂げた妻に、「よく頑張ったね」と、ねぎらいの言葉をかけようとした。ところが、声が出ない。私は、自分でも気付かないうちに、嗚咽していた。
母子ともに元気で、出産は無事に終わった。少し落ち着いてから、私は分娩室を出て、面会制限エリアの外で待つ妻のお父さんや弟に会って報告、職場や、母の居るグループホームにも電話で報告した。皆、祝福の言葉をくれた。姉夫婦も、夕方、病院に駆けつけてくれた。ただ、感染予防のため面会制限が厳しく、私と、妻のお母さんの他は、妻にも赤ちゃんにも会えない。
その夜、赤ちゃんは新生児室に移され、妻は広々とした個室で、体を休めた。私は、妻の病室に付き添うことを許され、二人だけで過ごす最後の夜を、さまざま話しながら静かに過ごした。
明日からは、新しい命に向き合って、七転八倒の日々が始まる。
◆高島 裕(たかしま・ゆたか)◆

1967 年富山県生まれ。
立命館大学文学部哲学科卒業。
1996年「未来」入会。岡井隆氏に師事。
2004 年より8年間、季刊個人誌「文机」を発行。
第1歌集『旧制度』(第8回ながらみ書房出版賞受賞)、『薄明薄暮集』(ながらみ書房)などの著書がある。
第5歌集『饕餮の家』(TOY) で第18 回寺山修司短歌賞受賞 。
短歌雑誌『黒日傘』編集人。[sai]同人。
現代歌人協会会員。