指が湾曲したまま硬直した、漁師の手のモノクロ写真。「公害の原点」と言われる水俣病の残酷さを、ありありと伝えてきた。撮影したのは写真家の桑原史成さん(88)だ。水俣病を先駆的に報じ、60年以上現地に足を運び続けている。これまで使ったフィルムは約600本。今年5月1日、熊本県水俣市で開かれた犠牲者慰霊式にも、カメラを構える桑原さんの姿があった。
最初に水俣を訪れたのは、大学を出たばかりの頃だという。なぜ無名の青年が受け入れられたのだろう。どのようにして水俣病を公害の歴史に刻む使命を負ったのか。
桑原さんを始め、「水俣の軌跡」を残してきた写真家らは、貴重な記録の保存や活用を求めている。撮影時のエピソードも語り継いでいきたいという。(共同通信=清鮎子、中村栞菜)
▽頭に浮かんだ故郷の負の歴史
1956年の水俣病公式確認から4年後の60年5月、桑原さんは大学を卒業し、帰省のため東京駅から故郷の島根県津和野町に夜行列車で向かっていた。夢はフォトジャーナリスト。世に出るための題材を探していた。何げなく開いた雑誌「週刊朝日」から答えが飛び込んできた。「水俣病を見よ」という十数ページの特集。奇病、原因不明、既に亡くなっている人がいる―。
「大きな事件が起きているんだなと思って。ずっと探していた写真家の最初の仕事に、これでいこうと思いましてね。夜にさしかかって、列車の外も中も暗かったけど、僕の意識だけは煌々と照っていたのを思い出しますよ」
頭に浮かんだのは、かつて故郷の津和野町にあり、銅の採掘で有名だった笹ケ谷鉱山の鉱害問題だ。副産物のヒ素化合物が周辺の河川や水田を汚染し、住民に健康被害をもたらした。「水俣病を大変な出来事だと感じたのは、僕の体の中からの反応でした」
2カ月後、水俣に降り立った。手には、水俣病特集を書いた週刊朝日の記者が紹介状代わりにくれた名刺。前年に水俣病患者のための特別病棟を設けた水俣市立病院(現・国保水俣市立総合医療センター)を訪ねることにした。