——舘鼻さんというと、花魁の高下駄から着想を得て作った、レディー・ガガさんの靴の作者として知られています。当時のガガさんは人気絶頂で世界的なムーブメントを巻き起こしていた時代。びっくりするような無茶振りはあったんですか。

僕が彼女と仕事をしたのは、2010年〜13年あたりで、世に出てないものも含めたら30足くらい作りました。一番大変だったのはスケジュールですね。納期が3日しかないということもありました。彼女は当然多忙だし、スタイリストもチームで動いている。だからなかなか衣装が決まらない。
いきなり「ジャケットがゴールドだから、それに合わせてゴールドの靴をお願い」という連絡が来て、慌てて2日間徹夜してぶっ通しで靴を作ったということもありました。今では体力的にもう無理ですよ(笑)。
——そもそもは大学の卒業制作で作ったものなんですね。
そうです。でも、学内では評価されなかったんですよ。もう10年以上前のことですから、考え方は今とはずいぶん違ったんでしょうね。教授たちはかなりコンサバティブだった。

僕自身は日本の伝統文化から着想を得て制作したつもりで、単純に新しいものを作ったつもりはありません。でも、見た目が奇抜すぎて納得してもらえなかった。
——でも、舘鼻さん自身は作品の可能性を疑わず、国内外のファッション関係者にたくさんのメールを送ってアピールしたそうですね。そうしてガガさんの衣装担当者に認められた。そのガッツがすごい。
高校生くらいの頃からそうなんですよ。ファッションデザイナーを目指していたので、自分の作品をコム・デ・ギャルソンの店員さんに見てもらったり。そういうことは臆さずできたんです。ものを作ること自体も僕にとっては特別なことではありません。母は人形作家で、シュタイナー教育の人形を自宅で作っていました。だから素材や道具が身近だったし、材料が作品に変わる瞬間はいつも目撃していました。
——ファッションデザイナーを目指していたのに、服飾の専門学校ではなく、東京藝大で友禅を学んだのはなぜですか。
日本の装束文化を学ぶことが結果として、世界で戦う近道や武器になると思っていたんですよ。世界でやるには、ただ行くだけじゃ勝てないですよ。センスだけではダメ。向こうで生まれたデザイナーたちは、自分の国の文化を生まれながらに勉強して世に出る。日本人が見よう見まねでやってもかなわない。自分にしか生み出せない武器を作るためには、日本文化を学ぶしかなかった。
——その日本の文化から生まれた靴が、ガガさんとともに時代をつくった。

今、別のスターが僕の靴を履いても、あんな現象にはならないでしょう。