平井敦士さん(富山市出身)は国際的にも評価を得る気鋭の映画監督だ。富山の銭湯を舞台にした短編映画『ゆ』はカンヌ国際映画祭の「監督週間」に正式招待された。県内でも凱旋上映し、多くの人の胸を打った。これまでを振り返り、映画に込めた思いを明かした。(聞き手・田尻秀幸、撮影・竹田泰子)

——映画監督になったきっかけは?

 

 父の影響でアクション映画にハマっていました。『ダイハード』とか『プレデター』が大好きでしたね。中学校で不登校になって家でいろいろ考えたり、内省的な文章を書いたりしながら、ずっと映画を見ていました。その頃には表現したいという気持ちが芽生えていたと思います。

 高校卒業後の進路を決める時期に、娯楽映画ではなく、作家性の強いヨーロッパ映画を見始めていた。その作品の描く世界が当時書き留めていた文章と近しい気がしたんです。だから自分も映画で表現したくなったんでしょうね。それで、日本の専門学校を出て、フランスに渡りました。

 

 日本の映画界の体育会的な空気が嫌だった。フランスは映画発祥の地ですしね。まあ、あまり深くは考えていなかったです。語学も苦手でしたし。

 ただ結果として思うのは、自分がやりたい映画はフランス的なもの。僕の師匠、ダミアン・マニヴェルという監督は、素人を起用して現場で本当に起きていることを撮ります。ハリウッドは作り込んで、俳優が役になりきることを求めますね。でも、フランス映画はどれだけその人らしさを撮れるか、フィクションの中であろうと、生きているものを撮れるかということに苦心しています。

——今も生活の拠点はフランス?

 そうです。パリの19区というところに住んでいます。移民が多くて、あまり治安も良くない。その分、混沌として活気があって面白い。下町っぽい場
所です。ピカソやジャン・コクトーとか、芸術家たちが集った場所からも近いです。

——富山でも上映され、カンヌでも好評を得た『ゆ』製作の端緒を教えてください。

 僕は作品のインスピレーションを創作物よりも場所に受けることが多い。今回は地元である水橋の銭湯ですね。

 

 フランスから帰国して銭湯に行ったんですよ。そしたら、かつてのアルバイト先の上司と再会しました。彼の母親が通っていた銭湯の回数券が見つかり、それを使って銭湯に来たそうです。彼の話を湯船で聞いていたら、物語が浮かびました。運命と言ってしまうと安易かもしれませんが、そういう流れみたいなものがあったんでしょう。

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