プレッシャーが大きい分、気持ちがいい

―野球を始めたのは魚津市本江小(現・よつば小)の時だそうですね。きっかけは何ですか?

小学校低学年の頃はJリーグ全盛期で、よくサッカーをしていました。ただ母がソフトボールをしていたため自宅にグローブがあり、友達と野球で遊ぶことも多く、3年から本江野球スポーツ少年団に入りました。

ピッチャーになったのは5年生の時。同級生より球が速かったので、監督から指名されました。野球は、ピッチャーが投げないと試合は始まりません。プレッシャーが大きい分、良い球を投げられると気持ちがいいのが魅力です。

一つ一つの練習の意味を考える

―中学、高校時代はどんな練習をしていましたか。

「誰かにやらされている」と感じる練習は嫌いでしたね。何のために必要な練習なのか、一つ一つの意味をよく考えていました。中学時代にはスタミナをつけるため、自主的に週1、2回、10キロくらい走っていました。

中学・高校時代の練習を振り返る石川投手​​
 

高校2年の秋からは、球速140キロを目指して練習していました。当時、県内に速い球を投げるピッチャーがいたので「負けたくない」と思ったのがきっかけでした。

一日10キロ走ったり、タイヤを押したり引いたり。他の人と一緒のことをしていても、同じ成長しかできないので、自分で考えたトレーニングを練習に組み込んでいました。

「野球を辞める」から、練習に戻った理由

―思い出に残る指導はありますか?

実は中学2年の時、一度野球を辞めようと思ったことがありました。もっと友達と遊びたいという思春期ならではの理由でした。練習に行ったり行かなかったりする時期が1カ月ほど続き、親にも「野球を辞める」と伝えました。

昨年12月、「石川歩ピッチャーズエリートアカデミー」で中学生に指導した
 

そしたらある日、監督に呼び出され、自分の技術を見込んでいることを話してくれ「続けた方がいい」と説得されました。まさかそんな風に思われていたとは知らず、本当にうれしかったですね。その日から練習に戻りました。

プロの道へと導いてくれた指導者

―プロへの憧れはいつから?

小学6年の時、将来の夢を語る新聞のコーナーに「プロ野球選手になりたい」と書いたのは、もちろんそう思っていたからですが、まだ憧れに近い感じ。

2000年12月6日の北日本新聞「ぼくの夢わたしの願い」
 

本格的に志すようになったのは、中部大学2、3年ぐらいでした。野球部の現監督で、当時はコーチだった堀田崇夫さんの指導を受けるうちに、思うような球が投げられない状態の時、何が悪いかが分かるようになってきて、これを実践すればプロに行けるというものが見えてきました。

ますます野球が楽しくなった時期ですね。堀田さんと出会わなければ、プロになれなかったと思います。

卒業後の2011年に社会人チームの東京ガスに入りましたが、1年目は振るわず、プロは無理かなと思った時期もありました。

「子どものころから『野球がうまくなりたい』という欲が強かった」
 

2年目から良い状態になってきたもののドラフトで指名されず、「あと1年」と思って続け、13年のドラフトでロッテと巨人から1位指名を受けました。

今振り返ると、子どものころから「野球がうまくなりたい」という欲が、とても強かったです。その思いを監督やコーチに後押ししてもらい、夢の実現につながったのかもしれません。

石川歩(いしかわ・あゆむ) 1988年、魚津市生まれ。滑川高、中部大、社会人チームの東京ガスを経て、2013年にドラフト1位で千葉ロッテに入団。プロ1年目の14年に10勝を挙げパ・リーグの新人王、16年には防御率2.16で最優秀防御率のタイトルを獲得した。右投げ右打ち。身長186㌢、体重80㌔。