夏を過ぎ、病気療養されていた妻の実家のお母さんが、少しずつ回復され、また娘のことをみていただけるようになった。
二歳半の娘を抱えて、私たち夫婦はともにフルタイムで働いている。仕事と育児に追われる中で、家の中の整理や家計のまとめ、短歌やデザインの作業などのために時間を割くことが難しい状態が続いていた。どうしてもしなければならない仕事は、必要な睡眠時間を削ってやるしかない。二人とも追い詰められ、日々成長する娘の姿に励まされながらも、苛立ちとしんどさに押し潰されそうな日々が続いていた。
病後のお母さんに負担をおかけするのは心苦しかったが、私たちは週末などに時々、妻の実家に娘を預かっていただくようになった。お母さんはじめみなさんこころよく面倒をみてくださった。
その時間を無駄にしないよう、私たちは、普段は育児に追われてできないそれぞれの仕事に打ち込み、家の中の整理などもした。そして時には、美術館やカフェを訪れ、二人で過ごすひとときを持った。私たち親が、心にゆとりと潤いを保つことは、娘にとっても大切なことだ。
娘はおばあちゃんが大好きで、親を離れて預けられ、お泊まりすることも少しもいやがらなかった。テレビ電話で顔を見る時も、いつも笑顔ではしゃいでいる。
けれども、お母さんの話では、夜寝る時などに、娘は「お母さんとお父さんがいなくて淋しい」と、ポツリと言うことがあるそうだ。それはもしかするとお母さんが「お父さんお母さんいなくて淋しいけど我慢してね」と言って聞かせるのを真似ているのかもしれない。それでも、私たちが迎えに行くと、娘は輝くような笑顔で駆け寄ってきて、ギュッと抱きついてくる。やはり私たちにずっと会いたかったのだろう。
冬が近づいたある日、妻は風邪で体調を崩し、仕事を早退した。医者に診てもらい、薬を飲んで寝込んだ。その日保育所に迎えに行った時、私は娘に「今日はお母さん具合が悪くて寝ているから、いつもみたいに甘えちゃいけないよ。お父さんといい子にしててね」と言い聞かせた。普段は、家に帰ると母親にくっついて離れず、妻が自分の食事をとるのさえままならないほどの甘えん坊だ。引き離そうとすると泣いてぐずる。だからこの日も、風邪で寝込んでいる妻にくっついて、妻を休ませないのではないか、またそれによって、娘にも感染するのではないかと心配だった。
ところが、家に帰ってみると、娘は布団で寝込んでいる妻の枕元に行って「早く元気になってね」と言う。眠り込んでいる妻の返事がなく、構ってもらえないことに文句ひとつ言わず、茶の間に行ってトトロのDVDを観ておとなしくしていた。その晩は、娘の夕食、お風呂、家事、寝かしつけ、すべて私ひとりでこなした。ワンオペ育児の大変さを実感する。
やがて妻が布団の上で目を覚ました時、娘は食パンを一枚妻のところに持って行き、「これ食べて元気になってね」と言った。妻は涙ぐんで頷き、ありがとうを言って、無い食欲を振り絞って、その食パンを一口齧った。
いづくより湧きたるならむ、子の裡(うち)に清水のごときもの流れをり
◆高島 裕(たかしま・ゆたか)◆
1967 年富山県生まれ。
立命館大学文学部哲学科卒業。
1996年「未来」入会。岡井隆氏に師事。
2004 年より8年間、季刊個人誌「文机」を発行。
第1歌集『旧制度』(第8回ながらみ書房出版賞受賞)、『薄明薄暮集』(ながらみ書房)などの著書がある。
第5歌集『饕餮の家』(TOY) で第18 回寺山修司短歌賞受賞 。
短歌雑誌『黒日傘』編集人。[sai]同人。
現代歌人協会会員。