
馬場雄大選手

馬場選手の母・由香利さん
―奥田中バスケットボール部時代は、2年後輩に現在、米ゴンザガ大で活躍する八村塁選手もおり、チームは県内の強豪として知られています。中学生時代の練習はどのくらい?勉強は?
部活動は毎日2~3時間だったと思います。週2回は午後6~9時の夜間練習でしたね。
勉強はよくできたほうで、だいたい上位にいました。でもそんなに勉強しなさいといった記憶はないんです。自分からやる子でした。
塾は通わず、習い事といったら水泳とそろばんだけ。そろばんは友達と競うので、伸びましたね。負けず嫌いですから。勉強はドリルを買い与えたりはせず、学校からの課題をこなすだけ。毎日の勉強はリビングで一緒にしていました。
高校に入っても、中間試験の時には私に「問題出して」と言ってきたりしました。答えだけでなく問題までよく覚えていて、担任の先生もどこで覚えているのか不思議がっていました。記憶力で乗り切るから中間試験はバッチリできたんだと思います。試験範囲の広い期末試験では成績が少し落ちていたかな。
―馬場選手の代名詞となっているダンクシュートは、お父さんが中学生のころから指導したと聞いています。
中学校の部活を引退してから高校1年にかけて、よく2人で練習していました。父親が、富山第一高校バスケ部の監督をしていたので、雄大も富山第一に入り、教わっていました。最初のうちはリングに手首が当たって傷だらけになって帰ってきていましたね。
雄大からは「リバウンドをうまい位置にしてくれるのはお父さんだけだ」と聞かされていました。お父さんのことを信頼していたんですね。ただ周囲からは「ダンクは体への負担が大きい」と聞かされていたので、私としては、長く選手を続けてほしいから、内心ではスリーポイントシュートを練習すればいいのにと思っていましたね。
―ご両親に見守られ伸び伸びと育てられた印象がありますが、反抗期はなかったんですか?
1回だけ私に反抗したことがありました。中学3年の時です。友達の家に泊まりに行きたいと言ったので、「ダメ」と言ったら、初めて「くそばばあ」と言われました。「言わないと思っていたのに、ついに言ったな」と思いましたが、そこは親として冷静に対処しました。「お父さんに聞いて、あとは自分で判断して」と答え、少し距離を置くつもりで、日常生活で必要なことしかしゃべらないでいたら、全く口をきかなくなったんです。
そんな状態が1週間から2週間ほど続いたでしょうか。いいかげんにしろと思って「お父さんに言いたくなくても、お母さんには自分の意思を伝えることは大事だよ」と言い聞かせたら、「口を聞かない私が楽しそうに見えた」って言ったんです。この瞬間、笑いを必死にこらえて「勝った」と思い、許してやりました。本人はその時、私が笑いそうだったなんて知らないと思います。

高校の卒業式で母・由香利さんと記念撮影
―大学は国立の筑波大学に進学しました。何かアドバイスされましたか。
筑波大の先生が、全国の選抜チームで一緒だった福岡大付属大濠高校の杉浦佑成君(現・サンロッカーズ渋谷)と雄大を誘ってくれたのが、大きかったみたいです。当時は明治大と東海大からも声が掛かっていて、私は勝手に明治に行くとばかり思っていたので「佑成と筑波に行く」と言われ驚きました。
富山第一高校への進学は、父親が同校にいたから自然の成り行きでしたが、大学進学は初めて自分で決めた道です。私からは「教員免許だけはどんなことがあっても取りなさい」と言いました。当時は今の活躍なんて想像もしていなかったし、手に職をつける意味でも約束させました。

筑波大学の入学式で
―親元を離れた大学時代はどんなサポートを?
やっぱりちゃんと食べているか気になるので、煮物やおひたし、雄大が好きなカレーやミートソースを何食分も作って、小分けにして送っていました。冬にはおでんも送ったかな。
雄大とは、とにかくよくしゃべったので、離れて暮らすと自分でもさみしくなるかなと思っていましたが、当時は母の介護に追われていて、意外とすんなり受け入れられました。

筑波大時代の馬場選手
―親離れ、子離れはいつごろだったと思いますか?
大学4年で日本代表に選ばれたころから、手元を離れた感じはありました。時々帰省しても、大切な宝を預かっているような感覚です。変なもの食べさせて身体を壊したら大変と思い、食事には特に気を使いました。だから今はただ栄養をしっかり取ってほしいと思います。子離れは…。雄大はきっと親離れしていると思っています。私は子離れしていると思いたいですね。