2018年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪スノーボード女子ハーフパイプに出場した大江光選手(富山市出身、バートン)。決勝進出を逃した試合の後、女手一つで育ててくれた母、幸恵さん(45)の腕の中で悔し涙を流す姿は、多くの人に感動を与えました。その後、現役続行を決め、今季も世界の舞台で戦っています。娘がアスリートとして活躍する日を夢見て、厳しくも温かく支え続けてきた幸恵さんに、話を聞きました。

─光さんがスノーボードを始めたのは、お母さんのすすめだったそうですね。

スノーボードはもともと私が好きで、光に「スノーボードやる?」と聞いたら「やる!」と答えたので、「やるなら本気で!」と小学校1年生から本格的に教え始めました。

私はスポーツインストラクターを養成する専門学校で学び、水泳の講師をしています。当時から、子どもをアスリートにしたいと強く思っていました。要するに「親のエゴ」ですね。

光は水泳もしていましたが、私に似て身長はそれほど大きくなるとは思えず、光が世界で戦える競技は何だろうと考えていた時に1998年の長野五輪がありました。テレビでハーフパイプの迫力ある滑りを見たとき、これなら応援する自分も燃えると思い、スノーボードで世界を目指そうと決めました。

保育所の入所式での記念撮影

―どのように練習していたのでしょうか?

まずは恐怖心をなくすためスケートボードを始め、空中感覚を身に付けるため器械体操も習い始めました。自宅では朝6時半から1時間ほど、朝練もしました。柔軟体操をして、二重跳びを500回し、スケボーをしてという感じで私が内容を決めて指導。小学校から帰った後も、水泳と体操教室に行き、家に帰って勉強をして、また基礎練習です。友達とは遊べませんし、誕生日のお祝いもクリスマスもない、本当にストイックにやっていました。


スノーボードを始めたころの光さん

―周囲から批判もあったのではないでしょうか? 

いろんな人に、いろんなことを言われました。「子どもは物じゃない」と言われたことも。それでも「世界と戦うなら、ほかの人がしないことをやっていくしかない」「やり続けることが才能につながる」「唯一平等なのが与えられた時間。これをどう使うかで人は変わる」と自分の考え方を伝え、自分のやり方を貫きました。何より「この子なら世界に行ける」と信じていたから、自分も頑張れたんだと思います。

―光さん本人は、そんな生活をどう思っていたのでしょうか?

私は怖いし、練習はきついし、すごく嫌だったと思いますが、嫌とは言えなかったんでしょう。でも中学1年の時、「もうやめたい」と家出をしたことがありました。結局、おばあちゃんの家にいたのです。私が「6年間の人生と努力を無駄にして、好きなことをやればいい」と一喝すると「もうちょっとやろうかな」と、また練習を始めました。

―小中学生の頃は、よく手紙のやり取りをしていたそうですね。

アルバムを開きながら、子育てを振り返る幸恵さん


 競技をしていると遠征や合宿など、お金がかかります。私は仕事を掛け持ちしていたのもあり、光が家に帰ったら一人ということがよくありました。そんなときに、おやつと一緒に手紙を置いておきました。「世界を目指すなら、もっと努力が必要だよ。頑張る光でいてねとか「努力は裏切らないよ」とか、自分自身にも言い聞かすように、よく書いていましたね。

【次回】②励まし励まされ大舞台へ