得意なけん玉を手に登校するようになり、学校の楽しさ、学ぶ喜びを知ったノリオ。全校児童が集まる集会で、ただ一人ステージに立ち大技を決めた感動を作文にまとめた。みなぎる緊張感とあふれる喜びがストレートに伝わってくる。私はそのとき思った。ノリオの父親がこの作品を読むと、どんなに嬉しいことかと。
父親はノリオの転入時に訪れて以来、学校に姿を見せることはなかった。ノリオの学校での様子を伝えるために何度か家庭訪問をしたが、いつも不在だった。
ただ1度、突然学校を訪れたことがあった。ノリオが家に忘れてきた集金袋を届けに来たのだった。相談室へ案内し、ゆっくりと話をしようと思ったが、「これから仕事なので…」と固辞された。つかの間の立ち話ではあったが、この機会を逃すまいと「生まれて初めての100点」のこと、けん玉が上手でクラスの人気者になっていることを手短に伝えた。父親は少し驚いた様子で聴き入っていたが、次第に気持ちがほぐれ、顔の表情が柔らかくなっていくのが感じられた。そして、やおら重い口を開いた。
「ノリオは、どこの学校でもいじめられ、よく休んだ。家にはテレビやゲームもなかった。退屈そうだったので、けん玉を買ってやった。それからは、けん玉ばかりしている。近ごろ、毎日学校に行くようになった。学校のことは話してくれない。仕事から帰るのがいつも遅いので話を聞く暇もなかった。ノリオがけん玉を持って学校へ行っていることも知らなかった」
帰り際、父親は私の目をまっすぐ見ながら次のように話された。「学校でのノリオの様子を聞くことができてよかった。ノリオが元気でいてくれることが私の喜びなのです。これからもノリオのこと、よろしくお願いします」。そして、深々とお辞儀をされたのだった。

私はできた作文を手に、そのときの父親の言葉を思い出し、ノリオに声を掛けた。「すてきな作品になったね。お父さんが読まれたら、どう思われるかね」
ノリオの返答は次のようなものだった。「きっと喜ぶと思う。お父さんに見せたい!」
作品を持ち返った翌日、ノリオは晴れやかな表情で登校し、私のところへ一目散にやってきた。そして「ノリオ、おまえ、がんばったな!」とほめてもらったことを満面の笑顔で報告してくれた。
「けん玉名人」と呼ばれて
けん玉発表会でスゴ技を披露したノリオは、一躍学校中の人気者になり、「けん玉名人」と呼ばれるようになった。低学年の担任からノリオのもとにけん玉を教えに来てほしいとの依頼が寄せられ、「チビッコ先生」として1・2年生の教室を回って「けん玉の基本」を教えることもあった。
3月のある日、ノリオが私のもとにやってきた。そして、1冊の真新しい本を見せた。『けん玉スポーツ教室-入門からチャンピオンコースまで-』(日本けん玉協会会長・けん玉道9段 藤原一生著)だった。けん玉入門書の最高傑作である。これまで何度せがんでも買ってもらえなかったが、けん玉発表会でのがんばりを知った父親が気前よく買ってくれたのだった。
「先生、ぼくは日本けん玉協会の会員になって藤原さんのような人になりたいのです」。ノリオは将来の夢と希望を語り、足取りも軽く職員室を出て行った。私は「けん玉がノリオを変えた」との思いを強くしながら後姿を見送った。
突然の別れ
その翌日、ノリオは学校に姿を見せなかった。
父親とは連絡が取れない。家庭を訪問したが、もぬけの殻だった。
後日、ノリオは遠く離れた地の小学校に転校したことが分かった。
ノリオは私の「けん玉の恩師」である。
【次回】 「いじめっ子」から立ち直ったツヨシ(その1)
◆寺西 康雄(てらにし・やすお)◆

富山県内の小・中学校と教育機関に38年間勤務し、カウンセリング指導員、富山県総合教育センター教育相談部長、小学校長等を歴任。定年退職後、富山大学人間発達科学部附属人間発達科学研究実践総合センターに客員教授として10年間勤務し、内地留学生(小・中・高校教員)のカウンセリング研修を担当。併行して、8年間、小・中学校のスクールカウンセラーを務める。
現在は富山大人間発達科学研究実践総合センター研究協力員。趣味・特技はけん玉(日本けん玉協会富山支部長、けん玉道3段、指導員ライセンスを所持)。