現代のラグジュアリービジネスの世界で最も注目すべき存在のひとりが、バルマンというファッションブランドのクリエイティブディレクター、オリヴィエ・ルスタン氏です。完璧や威光を追求する従来のラグジュアリー像を覆し、新しい価値観を提示しています。

1986年にフランス・ボルドーで生まれ、生後1カ月で養子に出されたルスタン氏。白人中産階級の家庭に育ち、25歳という若さでバルマンの舵(かじ)を取ることになりました。しかし、2019年のネットフリックスドキュメンタリー『Wonder Boy』において、生物学的両親を探す過程で、アイデンティティーを根本から覆される体験をします。自身がソマリア人の母とエチオピア人の父の間に生まれたアフリカ系アフリカ人であったことに加えて、母が当時15歳だったという事実を知るのです。真実を知った瞬間、彼は動揺や不安、孤独感を隠すことはしませんでした。
さらに衝撃的だったのは、2020年に自宅で起きた暖炉爆発事故です。顔や首に重度のやけどを負いながら、1年間沈黙を続けた末、21年に包帯姿でインスタグラムに登場したルスタン氏は、こんな告白をします。「なぜこんなに恥ずかしく感じていたのかよくわからない。たぶんファッション界で求められる完璧性への執着と私自身の不安のせいかもしれない」と。業界の完璧主義への疑問を呈した投稿は、数百万件に及ぶ支持の声を得ました。
ルスタン氏の選択は、「完璧」よりも「ありのままの誠実」。ラグジュアリー商品の価値の説明も、次のようになされます。「4万ドルのバルマンのドレスの背後には、多くの仕事、情熱、愛、誇り、涙がある」。このような人間的な情緒に重きをおいた説明も、正直なルスタン氏が語れば説得力をもつというもの。
不完全な人間らしさでファンを獲得していく彼はこう語ります。「私は本物の人間でありたい。それが私の使命のように感じ始めている」。ルスタン氏の就任後、バルマンの売上は10年間で7倍に増加しました。
こうした潮流は日本とも無縁ではありません。従来、日本のラグジュアリー消費は権威や格式、神秘性や完成度に重きが置かれてきました。しかし、若い世代中心に、人間味ある物語への共感が高まっています。たとえば加賀友禅や輪島塗では、後継者不足や地域衰退といった「弱さ」をあえて開示し、その挑戦を支える顧客を巻き込むことで新たな支持層を築いています。この過程で顧客は単なる消費者から、文化を共に支えるパートナーへと変わっていきます。

弱さでつながる、とは泣き崩れることで同情を得ることではなく、悩みながらも前に進む人間としてのありのままを語り、顧客の共感を得てブランドの文化を共創していくこと。単なるマーケティング戦略を超え、見かけに振り回されて何かと疲れがちな現代社会における真のつながりのあり方まで考えさせられませんか。
中野香織/なかの・かおり 富山市出身。服飾史家として研究・講演・執筆・教育・企業アドバイザリーに携わる。東京大学大学院修了。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授などを務めた。ラグジュアリー文脈のなかで伝統文化を考える「雅耀会」アドバイザー。最新刊『「イノベーター」で読むアパレル全史 増補改訂版』(日本実業出版社)。