人生の重要な部分ばかりを選んで覚えているわけではない。どちらかというと、そんなことは忘れてしまってもいいのに、と自分自身あきれかえってしまうような、どうでもいい日の記憶だけ、やたらと鮮明に覚えているのだから不思議なものだ。その場所へ行くたびに、そうしたいわけじゃなくても、否が応でも思い出す風景が、人生に彩りを与える。失われた建物、亡くなった人々、決して戻ることはない過去の積み重ねが、生きている今を形作ると悟れば、目の前のあらゆるものが途端に尊くなる。

 乗代雄介『二十四五』(講談社)は連作小説のひとつである。読者は過去の乗代の小説のいくつかを紐解けば登場人物の人生の断片を追体験することができるだろう。

『二十四五』乗代雄介(講談社、1,650円)

 本作では、弟の結婚式のためにはじめて仙台へ向かう〈私〉は、亡き叔母と行くはずだった名所を、ひとつひとつ訪ねていく。叔母との記憶が、言葉にならなくても〈私〉のなかをよぎる。《この先も飽きるほど繰り返されるであろう思い出話のために、その様子をいちいち詳しく描写しておく出過ぎた真似はしまいと思う》。〈私〉がそう言う割には、仙台に実際に行ったことのある読者なら、写真集をぱらぱらとめくっているかのように感じるだろう。緻密な描写の数々はまさに「なにげない日々の記憶」だ。

 亡き叔母の語るほどでもない、誰にも語られない歴史。そして物語のそこかしこにちりばめられている喪失の予感。そこから広がるイメージが静かに胸を打つ。出来事はたったの一度しかなく、同じ出来事は二度と訪れない。そのうちのいくつかが人生の何処かで何度でも誰かに飽きるほど語られる思い出話のひとつとして残っていくに違いないのだ。

 何気ない会話であるはずなのに何故か泣きそうになるのは、どうでもいい言葉がどうでもよくない言葉にやがて変化する日をどこかでみな知っているからだ。愛すべき時間がこのように儚くも美しく、輝いているといい。

あやと・ゆうき 1991年生まれ。南砺市出身。劇作家・演出家・キュイ主宰。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。