緻密で繊細な木彫で知られる岩崎努さん。県水墨美術館で開催中の「超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA」展(2月4日まで)にも出品している。壮大なレリーフから、野菜や果物をモチーフに本物と見まごうばかりの作品を生み出す。作品の隅々に込めた思いや創作の背景を聞いた。(聞き手・田尻秀幸、撮影・竹田泰子)

——井波彫刻の家に生まれたんですよね。

 6歳の頃には工具を持たされていました。家に子ども向けの工作の本がたくさんあったんですが、本で紹介されている工作を全て作っていました。おかげさまで美術と体育の成績だけは良かったです。

 

——いつか「家業」を継ぐと思っていたんですか。

 もちろん。ただ東京の美大の彫刻科に入ったら、迷い始めました。立体造形が好きなのは間違いないんだけど、いろいろな素材に挑戦したくなった。木じゃなくて、ガラスもいいんじゃないかって。結局、自分は木彫の写実だと思い至りましたけどね。

——大学を卒業されてからは、多田美波さんという抽象彫刻の専門家に2年間弟子入りされましたね。岩崎さんの写実とは作風が全く異なります。

 抽象であっても、美的センスは通じ合うものがあるんですよ。理想的な造形の美やコンポジションは写実だろうと抽象だろうと変わりません。作る時は選択の連続。その選択の根元にある美意識は共通しています。

昨年末に作った最新の「柿」。本物と見分けがつかない

——その後、富山に戻りました。

 8年くらい父と一緒にやりました。と言っても、同じ空間ではなく、1階と2階に分かれてやっていました。教わったというより、見よう見まねです。まあ、親子が同業種で同じ空間にいるのは難しいものがありましたね。今はあの時よりは仲良くしていますよ(笑)。

——井波から岩瀬に移ったのはなぜ?

 ガラス作家の友人に誘われたんです。彼と僕は同い年なのですが、芸術家が
集まるまちづくりが岩瀬で始まると教えてくれた。井波で自分の工房用の土地を見つけていたんですが、異分野の尊敬できる作家と切磋琢磨したくなった。
 父には反対されましたけどね。井波の方が仕事が安定的に入るだろうって。でも、異分野で頑張っている同年代の作家がそばにいる環境は面白そうだった。

——独立はすぐに軌道に乗ったんですか。

 最初の8年間は天神様を作ることで生活できました。その間に少しずつ自分の「作品」を発表して広めていった。今は何とか自分の作りたいものだけを作っています。綱渡りで何の保証もないけど幸せなことです。

 

——これだけ細密な彫刻を作るには、目も体も酷使しているでしょう。51歳という年齢をどう捉えているんですか。

 結局、僕らもアスリートのようなもの。体力勝負です。でも老眼にもなり、腰痛も治りづらくなってきた。かなりガタが来ています。一方で感覚は圧倒的に伸びている。総合的にはいいものができていると思っています。
 僕はこれから15年くらいが自分の作家としてのピークだと思っています。その中で一番いいものを世の中に残したい。

——同じモチーフでも作るものに変化はあるんですか。

 

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