「春菊です」の声をわたしの耳は確かに聞いた。春菊の旬を過ぎた春のことであった。
わたしは短歌をつくる歌人で、一月に第一歌集を刊行した。ナナロク社の選考会で歌人の木下龍也さんに選んでいただいたことがきっかけだ。花いちもんめで「島さんが欲しい」と手を引かれ、そのまま外の世界へ連れ出してもらえたような気分だった。
歌集を出版して三か月ほど経った頃、木下さんとTwitterのスペース(リアルタイムで会話する機能)でお話しすることになった。歌人として公の場で話す初めての機会である。木下さんと話すのもこれが初めてだ。緊張しないわけがない。そんなわたしに木下さんは
「嫌いな食べ物は何ですか?」と聞いてくださった。ここで冒頭の場面である。
「春菊です」。食い気味に発せられたその声をわたしの耳は確かに聞いた。びっくりした。わたしに向けられた質問に、あろうことか誰かが答えたのである。「春菊です」の声が頭の中でリフレインしている。混乱しながらもその声をよくよく聞いてみると、なんとわたしの声ではないか。いくらうっかり者でおなじみのわたしでも、さすがに23年も共にした自分の声を今さらうっかり忘れるわけがない。この声は間違いなくわたしの声だ。だが、そうは言っても当のわたしは「春菊です」と言った覚えはないのだ。
ふと、前にもこんなことがあったなと思い出した。口が勝手に喋るのである。通常なら脳から伝わって口で話すものだが、時たま口がわたしの思いとは関係なくひとりでに話し出すのだ。これもきっとそうだ。
こうしていろいろと考えるうちに声の謎は解けた。だが、また勝手に喋り出すのではないかと自身の口に怯える時間は続いた。自分が二人いるような感覚である。一人よりは二人の方がなんとなくお得な気がしてうっかり喜びそうになったが、すんでのところでなんとか持ち直した。

ここでやっと気がついた。そうか、緊張したときに起こるのか。ならばもう怯える必要はない。緊張しなければいいだけの話なのだ。なにも難しいことではない。そう思ってさっそく挑戦してみたものの、落ち着こうとすればするほど緊張してくる。こうなったらもう口を見張っているしか方法はない。そうして見張りに集中していると、気を取られて他のことが気にならなくなり、緊張が薄れていくようだった。
見張り役が大活躍したおかげで、なんとかスペースは終わった。ひと息ついて安心したわたしの脳内には「春菊、そんなに嫌いじゃないなあ」という思いが、ふわふわと気持ちよさそうに浮かんでいるのであった。
しま・ふうか
1999年3月生まれ。黒部市在住。歌人。2022年に第1歌集「すべてのものは優しさをもつ」(ナナロク社)を刊行。