宮内庁が10月9日に公開した「香淳皇后実録」。昭和天皇の后(きさき)、香淳皇后の97年の生涯について、計3828ページにわたり、1903(明治36)年の誕生から2000(平成12)年の死去までを時系列に記載している。昭和史を考える上で貴重な史料の中から、富山県に関わる記述を探して紹介する。

公開された「香淳皇后実録」(代表撮影)

【巻4】
▽195、196ページ
昭和18(1943)年5月18日(火)

今般、皇后の内旨を奉じ、皇族妃・王公族妃が決戦体勢下における地方民の活動状況、特に戦力増強に協力奉公する女性の活動状況並びに施設(季節託児所、母子保健・乳幼児保護施設、健康相談施設、産院、方面事業・共同炊事・共同栄養施設、遺家族授産施設、銃後奉公施設、学生生徒の労力奉仕等)を視察するため、この月中旬より十一月中旬に至る間、逐次地方に旅行することとなる。この日参内の故依仁親王妃周子と御対面になり、来る二十二日富山・石川・福井三県下の視察旅行(三十一日まで)へ出発につき暇乞いをお受けになる。(女官長日記、女官日誌、侍従職日誌、省中日誌、御下賜金関係書類、皇親録、宮内省省報) 

▽201ページ
昭和18年6月7日(月)

故依仁親王妃周子より、同じく福井・富山・石川三県下の視察旅行(五月二十二日より三十一日、六月三日帰京)につき復命をお受けになる。(女官長日記、女官日誌、侍従職日誌、省中日誌、御下賜金関係書類、皇親録、宮内省省報)

▽344ページ
昭和20(1945)年8月29日(水)

先般敵襲により近畿・中国・北陸の各地方において死者発生につき、この日、天皇・皇后より内務大臣に御救恤金を下賜される。(恩賜録、宮内省省報、官報)

 「先般」と時期が明確でなく、かなり広い地域を指しており、富山県の具体的な被害は示されていない。ただ富山県内では8月初めに空襲による大きな被害が出ていた。おそらくその被害に対する支援と思われる。

連載「富山大空襲までの100日間」

【巻5】
▽112ページ
昭和22(1947)年10月23日(木)

午前、北陸三県巡幸に御出発の天皇を御文庫においてお見送りになる。(女官長日記、女官日誌)

▽114ページ
昭和22年11月2日(日)

夜、皇太子・正仁親王と共に御文庫において、北陸三県巡幸より還幸の天皇をお出迎えになる。(女官長日記、女官日誌、侍従日誌、内舎人日誌)

 当時の天皇陛下が北陸3県を巡幸する様子は当時の新聞でも確認できた。福井、石川、富山の順番に訪れていたようで、富山県に巡幸する日が近づくにつれて紙面でも歓迎ムードが高まり、巡幸当日は1面で大きく掲載されていた。

1947年10月31日の北日本新聞。天皇陛下を大歓迎する様子が紹介されていた
1947年10月23日の紙面では、「天皇さまお迎えの歌」も掲載されていた

▽115ページ
昭和22年11月10日(月)

午後、御一緒に吹上御苑を御散策になり、再び御文庫に戻られ、参殿の正仁親王・和子内親王・厚子内親王・貴子内親王を交えて、北陸三県巡幸に関するニュース映画を御一緒に御覧になる。(女官長日記、女官日誌、侍従日誌、侍従職日誌、内舎人日誌、貞明皇后実録正本、官報)

▽269ページ
昭和25(1950)年9月8日(金)

今般台風二十八号(ジェーン台風)により甚大な被害を受けた大阪・和歌山・兵庫・京都・徳島・福井・石川・滋賀・富山の各府県に対し、天皇・皇后より御救恤金を賜う。(賜与録)
「ジ台風 本県に侵入」として被害を伝える1950年9月4日の北日本新聞

 ジェーン台風は四国や近畿に大きな被害をもたらし、富山県内でも死者4人、住宅半壊986戸、浸水1122戸。堤防の決壊など大きな被害が出て、ほぼ全域に災害救助法が適用された。(本田健司)

◆香淳皇后◆ 1903年3月6日、当時皇族の久邇宮邦彦王の長女として誕生。名は良子(ながこ)。子孫に色覚障害が遺伝する恐れがあるとして元老山県有朋らが婚約辞退を求めた「宮中某重大事件」を経て、24年に皇太子時代の昭和天皇と結婚し、上皇さまら男女7人の子をもうけた。26年、昭和天皇の即位に伴い皇后となった。戦後は、昭和天皇と共に国体や全国植樹祭で国内を巡り、71年の欧州、75年の米国訪問に同行した。日本赤十字社の初代名誉総裁を務めた。昭和天皇が死去し、皇太后となり、2000年6月16日、老衰のため97歳で亡くなった。

(随時公開します)

各記述の文末の()内は実録に記載の主要な依拠資料名(原則として実録編修時の名称)。引用した記述は原則として原文のままだが、割注は()に入れた。実録全文は宮内庁ホームページで閲覧できる。
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