酪農が盛んな静かな村に、突如、異様な集団が押しかけてきたのは、1989年の8月だった。一日中騒音を出し、お経のような「マントラ」を響かせ、「サティアン」と呼ばれる施設を次々と建設。山梨県上九一色村(現富士河口湖町、甲府市)に入ってきた者たちの正体は、オウム真理教の信者たちだった。
村の住民たちは、自力で教団との攻防を繰り返した。住民たちが待ち望んだ警察によるサティアン一斉捜索は、教団が1995年3月20日、東京で地下鉄サリン事件を起こした2日後だった。それから30年がたった。
住民の活動の中心になったのは「オウム真理教対策委員会」。最後にはサティアンの解体、信者の退去を達成した。委員長を務めた江川透さん(88)が、当時を振り返る。(共同通信=高野陽子)
▽「勝つまでやろう」
オウム真理教は1989年8月、土地を取得して私が住む上九一色村に入ってきた。何か変なものが来たぞと思っていたら、ショベルカーで瞬く間に土地をひっくり返していった。
信者らは24時間、マントラを流しながら作業するため、住民らは睡眠を妨害された。こういう集団とは一緒には暮らせない。最初は「気をつけろ。やめろ。静かにやれ」と注意したが、教団側は聞き入れない。追い出せなかったら、もうここはおしまいになる。だから負けない、勝つまでやろう、となった。
▽住民で対策委員会を結成
1990年6月に住民らで「オウム真理教対策委員会」を設立した。私は代表委員の1人に就任し、信者とも意見交換を重ねた。
信者の様子を見ていて、どうしてこんなものを信じるのか?と疑問だった。自宅の周辺では信者が白装束と覆面を身につけ、列をなして一日中歩いていた。
私の家は丘に作られた第2、第3、第5サティアンから見える場所にあった。信者から監視されていただろう。