かつて日本一の銅の産出量を誇り、1973年に閉山した栃木県の足尾銅山。排出された鉱毒により、周辺地域に甚大な被害をもたらした日本最初の公害問題で有名だ。
銅山を運営していた古河鉱業(現・古河機械金属)は今年創立150年を迎え、今夏、日光市に「足尾銅山記念館」をオープンする。展示は「足尾の光と影」と銘打ち、公害と、公害を「克服」した技術発展の歴史を強調する。
だが「影」は公害だけではない。太平洋戦争中、銅山では連合軍捕虜や中国人、朝鮮人が強制労働させられた。地元ではどう語られてきたのか、あるいは語られなかったのか。(共同通信=市川太雅、宮脇奈月子)
▽鉱山城下町・足尾
日光東照宮などの世界遺産で知られる栃木県日光市の中心から、車で約30分。長いトンネルを抜けた先、周囲を山に囲まれた小さな集落が、旧足尾町(現日光市)の中心部だ。
足尾町は、明治時代に急速に産出量を伸ばした銅山と共に発展した。銅山や関係産業の労働者、その家族などでにぎわい、人口は1916年に4万人弱のピークを迎えた。
しかし戦後の1973年に閉山してからは、みるみる人口が減り、2025年7月時点で暮らしているのは約1200人だ。
▽「朝鮮人の長屋がずーっと」
戦時中、金属需要の高まりに合わせて増産を目指す中で、労働力として動員されたのが外国人だった。当時植民地だった朝鮮半島の一般人や、交戦国の中国、アメリカ、イギリス、オランダなどの捕虜たちだ。
朝鮮人が住まわされていた地区を案内してくれたのは、元足尾町議会議員の上岡(かみおか)健司さん(92)。「この道の両側に、朝鮮人の長屋がずーっと並んでいたんです」
足尾に生まれ育ち、古河鉱業に勤めた。労働組合活動を理由に解雇され、町議に転じた。
上岡さんによると、朝鮮人にあてがわれたのは、冬に日の当たらない場所や、職場である坑口から遠い地域、製錬所に近く煙のひどい地区など、条件の悪い場所ばかりだったという。
長屋のあった場所は現在、土台の石垣が残るのみで、建物は跡形もない。中国人や欧米人捕虜の収容所があったエリアも、当時の面影を残すものは何一つ見つからなかった。
▽犠牲者は73人
戦後に厚生省(現・厚生労働省)がまとめた資料を分析した元駒沢大学教授の古庄正氏の研究によると、1940~45年に朝鮮人計2416人が足尾銅山に動員された。