広島平和記念資料館(原爆資料館)の元館長原田浩さん(85)は、6歳の時、爆心地から約1.9キロの広島駅で被爆した。熱線で焼けただれ、路上に倒れた人の体を踏んだ足の裏の感触、生きたまま焼かれる人の姿。本当は思い出したくない体験を、核兵器廃絶のため伝えてきた。

 被爆50年には館長として、米国で企画された原爆資料の展示に関わった。立ちふさがったのは、原爆投下を正当化する米国世論の「壁」。被爆資料の展示は中止となった。それから30年。米国の原爆観は変わったのか。被爆80年を前に、思いを語ってもらった。(共同通信・玉井晃平)

疎開のため広島駅へ

1945年当時は6歳で、広島駅から歩いて10分ほどの段原(現在の広島市南区)に住んでいた。8月6日の朝、郊外の西条(現在の広島県東広島市)へ疎開しようと、親に連れられて広島駅に向かった。戦争が激化し広島市内もいつまで安全か分からず、食料状況も厳しい。両親は、幼い私の身を戦争から守るため、郊外の祖母宅に預けようとしたのだ。親元を離れての初めての生活は不安で、私は心寂しい思いがしていた。

 広島駅に着き、山陽本線のホームで列車を待っていた。予定時刻を過ぎても列車が来ず、待ち続けていた午前8時15分、ものすごい閃光が走った。父がとっさに自分の上に覆いかぶさった。父が背中に大けがを負いながら守ってくれたおかげで、奇跡的に私は大きなけがを受けることはなかった。

 しばらく気を失っていたが、気が付いてがれきをかきわけ、はい上がった。駅舎はコンクリート造りの強固な建物だったが、外壁だけが残り、天井は抜け落ちていた。湧き上がったきのこ雲で薄暗く、目を凝らして見ると、街は何もかもなくなっていた。

 しばらくすると、あちこちから火の手が上がり、炎が竜巻のように荒れ狂って襲いかかってきた。父がとっさに判断して、私を引っ張り東の方向に逃げた。

 その時点では何が起こったのかさえ、全く分からなかった。もし西に向かっていれば爆心地の方面だったので、より強い放射線を浴びていただろう。

多くの人を踏んで逃げた

 当時、ほとんどの道は、大八車や自転車がやっとという道幅だった。ただでさえ狭い道が、倒壊した家屋でふさがれて歩けるところがなかった。後ろからどんどん迫ってくる炎から逃げるため、路上で無数に倒れていた生死不明の人たちを踏みながら逃げるしかなかった。

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