東京タワーに登ったことがない。いつぞや通った大学のキャンパスからは歩いていける場所にあった。すぐ近くで仕事をしたこともある。それでも登らなかった。「観光名所なんて興味ない」とスカしていたわけではない。むしろ好きだ。味気ないビル群の中で、あのオレンジ色の光は温かだった。ただ外から眺めていたかった。ちなみに東京スカイツリーには何の思い入れもない。仕事のため、完成早々に登った。東京タワーがきれいだった。

倉俣史朗《ミス・ブランチ》1988 年 富山県美術館蔵 撮影: 柳原良平 ©Kuramata Design Office
 この椅子もただ眺めていたい。座りたくない。まあ、座りたくても難しい。世界に74脚しか存在しない。この希少な大傑作に座ったことのある人によると、座り心地は良くはないらしい。しかし、この美しさを前にしたら些細なことだ。

 倉俣史朗の代表作「ミス・ブランチ」は透明な光の中にバラが浮かぶ。時間や重力の約束も忘れたかのように花が静止している。装飾は通常表面上に施すものだが、「ミス・ブランチ」は奥へ奥へと沈み込ませる。触れたくても触れられない。一度見たら忘れられない。たとえ地球が滅んでも、この椅子だけはそのままの形で残っている気がする。永久凍土の下で発見されたライオンのように。

 液状のアクリルの中でピンセットで造花のバラを配置するという手間の掛かる工程で作られる。大量生産などできない。難易度の高い家具をデザインしてきた倉俣は、毎年夏になるとスイカを買ったらしい。デザインを具現化してくれる工場の職人に暑中見舞いとして贈ったという。

 倉俣はストイックだった。作品は無機質で単一の素材で構成し、緊張感に満ちたものが多い。「ミス・ブランチ」はほんの少しだけ禁を解いたようにも見える。その後のデザインは色への関心を深めていった。より自由になった。

 「ミス・ブランチ」を生み出した3年後、倉俣は旅立った。まだ56歳だった。(田尻秀幸)

倉俣史朗のデザイン——記憶のなかの小宇宙
会  場:富山県美術館
会  期:開催中〜4月7日(日)
開館時間:9:30〜18:00(入館は17:30まで)
休館日:毎週水曜日
観覧料:一般:900円(700円)、
    大学生:450円(350円)、
    高校生以下無料。
    ( )内は20名以上の団体料金
問い合わせ:TEL.076-431-2711