
「山王さん」と呼ばれ、親しまれている日枝神社(富山市)の山王まつりの歴史は長い。富山市中心部は1945年8月の空襲で焼け野原になったが、まつりはその翌年には既に開かれていた。昭和20年代のまつりを本紙と本紙姉妹紙「北陸夕刊」の紙面からたどった。
総曲輪商店街なぜ建ちおくれるか? 昭和21年
空襲後初めての山王まつりは昭和21(1946)年。新聞には写真と「山王祭りの賑ひ」という見出しが掲載された。写真は不鮮明だが、鳥居以外に建物らしい建物はほとんど見えず、戦災の悲惨さを物語る。隣の記事には、総曲輪商店街の復興が遅れていることに触れている。

ヨイ子をそそる3円の氷水 昭和22年
昭和22(1947)年の紙面は、驚くほど多くの人が写っていた。記事中には「砂ほこりの中にパラソルや帽子がかすんで見える」とある。鳥居の周りには屋根も見える。テントなのか、建物なのかはよく分からない。
記事によると初日の人出は8万人で、「イモの子を洗うような大混雑」だった。「ピースやコロナをかけた輪投げがあり、三円の氷水がヨイ子の味覚をそゝる」と露店の多さも分かる。
サーカスもあり、「大入満員で入場を待つ人の大行列」と人気ぶりがうかがえる。

昔なつかしジンタ 新調の大みこし 昭和23年
昭和23(1948)年は北陸夕刊から。「新社殿の完成を祝う」とあり、鳥居周辺の建物が増えて、街らしい風景となってきたことが分かる。昭和22年に新調した大みこしもあり、「古式ゆたか」だったと伝えている。
境内には「シバタサーカスの昔なつかしジンタ」が響いた。衛生防犯展、サーカス、舞踊など「多彩な興業を一斉にふたあけ」したという。
ん? ジンタって何だ?
調べてみると、サーカスの少人数の楽隊だと分かった。語源は「ジンタッタ」という音に由来し、擬声語らしい。後のチンドン屋の源流となったそうだ。「じんだはん(おまわりさん)」ではなかった。
北日本新聞朝刊は「山王祭へ人津波」との見出しで、人出の多さを伝えた。

おみくじで首切り占い 人と露店で埋まる 昭和24年
昭和24(1949)年も北陸夕刊から。この年の山王さんは天候に恵まれた。「郡部からドッと数万の人出」で富山地方鉄道の電車が混み合った。「八尾線は人をさばき切れず増発している有様」とある。
6月2日付北日本新聞朝刊には「おみくじで首切り占い」というおどろおどろしい見出しも。露天商は