一粒の砂金見つける喜び
北日本文学賞が60回を迎えた。地方から個性豊かな作家を発掘しようと、初代選者に丹羽文雄さんを招き、賞を創設したのは1966年。第3回から井上靖さん、第26回以降は富山ゆかりの宮本輝さんと、文壇を代表する作家の単独選で人気を集め、累計の応募数は4万4000編を超えた。規定は原稿用紙30枚。作品が映し出すのは、人間の普遍的な営みや時代の空気だ。「読み終えた後、奥底から何か大きなものが湧き上がってくる」。35年にわたり選考を担う宮本さんは、そんな小説との出合いを楽しみにしているという。(室利枝、田中智大)
-北日本文学賞60年の歴史の中で、第26回から35年にわたり選者を務めていただいています。
当時、北日本新聞社の文化部の人が来て、亡くなった2代目選者の井上靖さんの後をやってくれないかと。大役だなと思いましたね。44歳の時です。(候補作を絞り込む)地元選考委員には僕より年配の方もいて、皆さんが侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をして選び出した6編の中から、僕が一つを選ぶ。偉そうで、しんどい仕事やなと思ったんです。
-就任直後に約500編だった応募作は現在、千編前後と、国内有数の短編文学賞になりました。
引き受けた当初は、手書きの人が多かった。上手な人もいれば、殴り書きの人もいる。読むのも大変やねん。そのうちワープロ打ちが増えてきて、同時にレベルも上がってきたような気がしてね。その理由が、僕が「こうしたらどうか」「ここは問題がある」と選評などで言ってきたことを、小説を書く参考にしてもらえた結果なら、選者になった価値があったなと。自分を鼓舞しながら40回、50回、そして60回を迎えたわけです。
北日本文学賞は、この5年くらいでまた一皮むけたと思う。最終候補作のレベルがね、ぐっと上がってきた。文章的にも小説の組み立てや素材の選び方にしても、いいものと悪いものがはっきりしてきた。だから、すごく楽しみにしているんです。後は、プロで活躍する作家をもう1人、2人出したいな。
-選者の苦労は、どんなところにありますか。
文学賞というのは、よっぽど抜きん出ている場合じゃなければ、選考委員で受賞作が変わる。芥川賞の選考会も、みんなバラバラですから。小説の評価なんてそんなもん。だから、僕ひとりで決めるというのは、大きなプレッシャーですよ。入賞作と選奨作を選ぶわけだけど、他の人が選者だったら、結果が入れ替わっているかもわからん。いつもそういう後味の悪さが残るんですよ。
-逆に、喜びもあるのではないでしょうか。
僕が選んだ書き手が、世の中へ出ていって、一人前の作家になってくれたら、それはうれしいですよ。砂漠の中で、おれは砂金を一粒見つけたんやなって。それぐらい、出にくいもんだということです。同時に、「人生の中でこの一作を書いたら自分は十分だ」という人もいると思う。北日本文学賞のおかげで、小説らしきものを一生に一編書いたと。それでいい。そういう賞だと思う。
-初代選者の丹羽文雄さんが定めた30枚という応募規定について、その難しさを指摘しています。
30枚で書くには「抑制」と「省略」が必要だけれど、それだけでは、あまりにも抽象的な小説になって読み手に伝わらない。逆に書き込むと30枚では足りなくなる。非常に難しい枚数ですよ。短いようで、実際書いてみると膨大なボリュームなんです。3枚ぐらいは書けても、10枚を超えたところで動かなくなる。30枚でビシッと収めなきゃならないとなると、一行一行おろそかにできない。小説の極意みたいなものが求められる。僕がいま「30枚で短編書け」って言われたら嫌ですね。
この35年で時代は変わったけど、作品の題材はだいたい普遍的なものが多い。老いとか病とか、そして家族の問題ね。みんなが経験する大きな人生の問題は、やっぱり小説にしやすいでしょうね。公衆電話がスマホになるとか、テクノロジーの急速な進歩で生まれる新しい世界はあるんだけど、人間の営みの世界は少しも変わらない。同じことで悩み、苦しんでいる。それが北日本文学賞の30枚の短編の中に出ていると思う。
案外少ないのが恋愛。ゲーテやドストエフスキーにしたって、古今東西を問わず、恋愛は小説の普遍的なテーマだけど、30枚では書きにくいのかもわからん。
-選考をする上で、重視していることは何でしょう。
素材の選び方、それと文章の密度でしょう。
「これを小説にしよう」という感覚が平凡だと、作家の資質はない。同じ嫁しゅうとめ問題でも、普通の人間が見ているものを、別の角度から書いてみせる。そういうセンス、小説家的目線がないといけません。目線はいいけど文章が稚拙な「眼高手低」が多くて惜しいね。逆に、文章はうまいけど、世の中とか人間を見る目が甘い「眼低手高」な人もおる。どっちも高い人は、なかなかいない。
北日本文学賞の地元選考委員の目は厳しいですよ。読み巧者ばかりです。で、最後に僕が読む。それをいわば組み伏せて選ばれた入賞作や選奨作は、それだけ力がある。自信を持ったらええと思う。
-生成AIが小説らしきものを書ける時代になりました。改めて人間が小説を書く意味をどう考えますか。
一部分をAIが書いたという作品を読んだけど、正直に言われなかったらわからへん。でも、どこか無機質で、空気の薄い所へ入ったみたいな違和感がある。その違和感が何かは、口では説明できない。全編AIが書いた小説が出てきたら、読んでみたい気もするけど、なんか怖い。感情のない小説なんてね。将棋や囲碁では人間はAIには勝てないけど、小説はそうじゃない。人間のつながりや感情は計算できない。
-これからの北日本文学賞に挑戦する人に何を求めますか。
説明するんじゃなく、描写する。選者になってから、ずっと言い続けてきたことです。説明と描写の違いを教えてくれと言われても、言葉では教えられへん。
細かく状況説明し、わかりやすく書いてあるけど、感動も何もないという作品がほとんどやと思う。そうじゃなく、わかったようなわからんような小説やけど、説明できないけどとても大きなものを与えてもらった。それが名作。小説に限らず、芸術っていうのはそういうもんだと思う。
30枚に書いてあるのは、仲の悪い嫁しゅうとめの一日。でも読み終えた後、とてつもなく大きなものが作品の底から湧き上がってくる。そういうものを、書く人には目指してほしい。
◆みやもと・てる◆ 1947年神戸市生まれ。小学4年の1年間を富山市で過ごす。77年「泥の河」で太宰治賞、78年「螢川(ほたるがわ)」で芥川賞を受賞。96~2020年まで芥川賞選考委員を務めた。10年紫綬褒章、14年北日本新聞文化賞、20年旭日小綬章、25年菊池寛賞。「優駿」や「流転の海」シリーズをはじめ、本紙に連載した「田園発 港行き自転車」「灯台からの響き」、富山の売薬が主人公の歴史小説「潮音(ちょうおん)」など著書多数。兵庫県伊丹市在住。
