北日本新聞納涼花火は、市街地の99.5%が焼失し、一夜にして3千人近い死者を出した1945年8月2日未明の富山大空襲から2年後、空襲の犠牲者への鎮魂の思いと平和への願いを込めて始まりました。
納涼花火の開催に合わせ、平和を願う多くのメッセージが寄せられました。空襲の記憶や平和の尊さを次の世代へつなぐために紙面で紹介します。
また、一部メッセージは納涼花火会場で読み上げます。
※メッセージは一部編集、修正しています。ご了承ください。
富山市 60代
お盆が近づくと、亡くなった義母が「私が小さい時、山の家から遠い東の空が赤く見えた夜があった」「しばらくして、それが富山大空襲だと聞いた時は、びっくりした」と独り言のように小さな声でつぶやいていたのを思い出します。
富山市 30代
いつまでも今の現代の日本や世界は平和でありますように
富山市 30代
あの日から今年で80年。私たちは当時のことは知らないけれど、そこには日本、そしてここ富山の数多くの方々が乗り越えようと努力されてきた知らなければならない事実があります。今日の花火1つ1つに永久(とわ)の平和への願いをのせて、今日この会場に集っている皆さんと改めて、平和の大切さを実感したいと思います。
砺波市 60代
今だからこそ、静かで平凡な毎日が嬉しい。世界の至る所で起きている内紛や戦争が、一日も早く終わりますよう祈っています。銃火器や爆弾などの火花より、納涼花火の美しい大輪の花を楽しみたい。
富山市 40代
私の祖父は、富山大空襲の夜、まだ幼い少年でした。祖父は燃え上がる町を必死に逃げながら、「なぜ人が人を傷つけるのか、命を奪うのか」と小さな胸で問い続けたそうです。その夜に見た、炎に包まれた富山の空の赤さは、一生忘れることができなかったと語っていました。戦争はすべてを奪います。かけがえのない命、大切な家族、ふるさとの景色――。祖父の言葉から、私は命の重さと、平和であることの尊さを学びました。花火が夜空を彩るたび、祖父は手を合わせて平和を祈っていました。この美しい光が、二度と戦争の炎に変わることのないように。私たちもその願いを引き継ぎ、未来へとつないでいきたいです
富山市 60代
ドーン、ドーン…今年も花火大会が近づいてきた。昭和20年8月2日未明に起きた富山大空襲の日にちなんでの大会だが、幼い頃は知る由もなく、夜空に煌めく花火をながめる楽しさだけが記憶に残っている。 富山の罹災人口約11万人、約3千人の命が失われた。今なお地球上のどこかの国が戦争をし、自国の名の下に他国の生命の犠牲をはらう。なんと理不尽なことだろう。一番苦しむのは母たちだ。大事な息子、娘が犠牲になると想像しただけで胸が張り裂けそうになる。 今私たちに出来る事は、平和への強い祈り、そして目の前にいる一人を大切に思う心があれば、善の連帯は確実に波動となって広がっていくであろう。
高岡市 60代
中学校社会科の教師として、また戦争を知らない世代の一人として「戦争体験談を語り継ぐ」ことを大切にしてきました。父(昭和4年生まれ)は「B29の不気味な音がして自宅前の庄川の堤防に掘った防空壕に入った。しばらくして壕から出て東を見ると呉羽山の空が真っ赤に染まっていた」と話してくれました。わずかな体験談の聞き取りですが、授業ではその後自分で調べた富山大空襲の状況や県護国神社内の遺芳館に展示されている兵士の遺書遺品を見た時の驚きにふれて生徒に伝えてきました。そしてこの花火大会が8月1日に慰霊の意味をこめて始まったことも忘れてはなりません。
富山市 50代
コロナで閉鎖的だった何年間、やっと落ち着いたと思った時の昨年の1月1日の大地震。地震に慣れていない富山は大変なおもいをしましたよね。能登もまだ大変だけど早く平和にのんびりと暮らせますように心よりお祈りしてます。
富山市 60代
私の母は現在89歳。80年前は西中野に住む小学生であった。8月1日は、卵が配給される嬉しい日。明日食べようと大事に取っておいた。しかし、その2日にB29が来襲し、サイレンが鳴り響く中、家の裏の防空壕に避難した。その時、親戚の叔父さんの「防空壕はだめだ!」という声で、兄弟達と慌てて沼田を走った。ぬかるみに片方の長靴は脱げたが必死に走り、芋田川の橋の下に逃げ込んだ。とても恐ろしかった。橋の下から出た時、辺りは全て焼け野原になっており、ポツンと大和、電気ビル、日本興業銀行だけが見えた。この後、親戚の家に疎開し、終戦後バラックの家へ戻ったが、夜はトタンの上で寝た。今でも母は卵は嫌いだと言っている。
南砺市 60代
去年なくなった父が戦争の悲惨さを語ってくれました。皆が戦争に行くなかで身長が足りず戦争には行けなかった。手が器用なこともあり不二越の会社に行き旋盤工として働き、そんな中富山大空襲にあったそうです。逃げようにも空から爆撃弾丸が降り注いで逃げれる状態ではなかったそうです。皆が川に入り足の踏み場も無い程だったそうで…それこそ乳飲み子を抱っこした母親まで、空襲のあとはそれは悲惨なもので家に帰ろうにも帰れなかったそうです。父の会社は空襲から逃れられたそうで親がどうやってやって来たのかわからないけど会社に迎えに来てくれたそうです。父はそれ以上は語りませんでしたがきっと戦争の悲惨な思い出は消えない物ではあったと思います。そしてこの悲惨な状況の中でも迎えに来てくれた母親への感謝は94年間ずっと思い続けていたんだと思います。世界の平和を願ってます
富山市 50代
今、私たちが見上げているこの空を、地球上の何処かでは不安や悲しみ、苦しみの中見上げている人々がいる事を忘れてはいけない。いつの日か隣同士で手を繋ぎ、今夜のような夜空を見上げることのできる平和な日が来ることを願っています。
富山市 70代
今までシングルマザーとして仕事と3人の子育てに追われて花火をじっくり見る機会も心の余裕もない暮らしをしてきました。ところが昨年、孫が神戸から遊びに来て息子夫婦が花火見物に神通川の土手に連れて行ってくれました。1発目から感激!!なんと素晴らしい!!富山の花火はなんと…今まで見てこなかったことを悔やみました。初めて見た小学4年生の孫と終始歓声を上げ楽しみました。誘ってくれた息子家族に感謝です。この年になって富山に住んで居ることに改めて誇りに思ったものです。終わってしばらくは、会う人皆んなに富山の花火の素晴らしさを自慢してました。皆さんはご存知なのでしょうね。こんなに素敵な花火が、平和を願う花火が富山の空から消えることがない世の中が続きますように強く強く願います。
高岡市 60代
皆さんは、80年前の日本を想像したことがありますか? 正しい情報が得られず、言いたい事が言えない時代に生きた、多くの人々が犠牲となりました。しかし、今は違います。自分で学び、知る、考える。そして、行動することが出来るのです。核兵器の無い明るい未来のために、平和のランナーになって下さい。
射水市 50代
父が二歳の頃、富山大空襲があった。幼い頃からよく聞かされていたのが、射水市からも富山市の空が赤かったんだよという話だ。夜空を染めるのはそんな赤い炎ではなく、いつまでも平和を願う艶やかな花火であってほしいと思います。
富山市 70代
安心・安全な日常生活の中で、自分らしく、己の人生を楽しむことが、世界平和の原点ではなかろうか。相手を『思いやる心』・相手に『譲る心』・相手を『待つ心』が、地球上に充満する時代を迎えたいものである。生地、貧困、学歴、地位等々を超越して、“笑い”の絶えない人間関係が成り立つ世の中の到来を望みたい。
富山市 70代
戦後八十年の節目に母は十月で百歳を迎える。夫は兵隊で留守、十九歳十ヶ月になる母は二ヶ月になる我が子を担ぎ、空襲で空は真っ赤に染まり一瞬で焼け野原に黒い灰になり方角さえわからなかったそう。旧大和の建物がくずれながらも残りここが西町と気付かされたと知ったそうです。私は戦後に生まれ、自分の名前の由来を尋ねると、平和になる事の願いを込めて、和子と名付けた事を知る事が出来ました。現代社会では衣食住にもめぐまれ幸せ過ぎて人が人をあやめ、又、国と国のどこかで戦争が、戦いの始まりは欲からの始まりである。八月一日花火は今年は白一色と天地人の記事で知り、どうか虹色に見えますように、一度きりの人生、命を大切に平和になります様に願ってやみません。
砺波市 80代
戦災は、脳裏に焼きつく80年 忘れてならない、戦争の過去‼
80年前、8月1日から2日未明にかけて米軍のB29爆撃機が焼夷弾を雨あられのように投下した。市街地は一夜にして焼野原となった。私は富山市婦中町朝日小学校に通う8歳、担任は武部先生でした。朝礼の時、数道先生が富山に空襲警報が近日中にあると言いました。その夜、サイレンが鳴り富山の空を見ると真っ赤になっていましたので私は村の中央まで見に行きました。すぐ目の前が大火になっていました。私は怖くなってきたので家に帰ると親に「どこに行っとんが!!」と叱られました。兄は13歳、妹が4歳、弟が1歳、家族6人で避難しました。1km離れた村の大堤の土手に避難しました。婦中町の日産化学から白い煙が出ていました。富山の上空には焼夷弾が花火のように落ちていくのが見えました。空にはB29がたくさん飛んでいました。私はB29がトンボの大きさほどになるまで、空を眺めていました。
翌朝、村の中央まで行くと戦火から逃れた人達が素足で疲れ切った表情でアリのような行列で医薬大に向かって歩いていきました。戦争は本当に生き地獄のようでした。
今日の花火大会は今後も弔いの意味を込めて続けて欲しいと思います。
南砺市 60代
夏になる度、思い出します。
今から60年余前、地区の児童会の行事は貸し切りバスで海水浴に行くのが恒例でしたが、私は父の病の為、姉と共に祖母宅に居りそのバスを遠目で見送りました。暫くすると祖母が「海に行こう」と言い、慌てて準備して汽車に乗り海に行きました。浜茶屋に着くと照り返す太陽・潮風・波の音に心が躍り、浮き輪を片手に海へ走ったのを覚えています。
私達を海に連れて行ってくれた今は亡きおばあちゃんありがとう。
思いやり愛和の積み重なりが平和へと続くと思います。世界では戦争や自然災害で、かけがえのない命が奪われています。私たちの日々『あたりまえ』と思っている事がいかに有難い事か、一度立ち止まって、今自分が出来る事を考え、まず一歩一歩踏み出した生活をしていきたいと思います。
富山市
私の家は護国神社の前にありました。家の屋根に降ってくるようなお腹に"ドン"と響く音が忘れる事が出来ません。親、六人の兄弟、末っ子の私は、この花火が忘れる事がありません。病気になり新聞の一面に出る花火の写真を懐かしく思います。
富山市 80代
何十年亡き両親に手を引いてもらい、毎年神通川納涼花火大会を見に行きました。令和4年8月1日の花火を見て喜んでいた矢先、8月7日七夕の日に転んで「左大腿骨頚部骨折」手術しました。次の年見に行く事が出来ないと思っておりましたが、主治医、病院の方々のおかげで手術の状態もよく早く歩く事が出来ました。80年の節目に河川まで行けることがありがたく思っております。私が3歳の時、神通川の川の中で男の人たちが何回も手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えている姿と辺りの火の手が赤々とあがっているのが記憶に残っています。平和への願い花火を見て心が引き締まる思いです。8月1日生まれの私には忘れることはできません。家族皆集まって花火を見に行きます。
富山市 70代
戦後80年、戦争を知らないベビーブームに生まれた私は御年78歳。新聞やテレビで報道される戦争のニュースに胸が痛み、と同時にこの平和な国に居ることを幸せに感じております。花火が大好きな私は、墨田川・長岡と遠方に出かけておりましたが、富山の花火大会は戦争で命を落とされた方々の鎮魂の意である事を知って以来、私には八月一日の富山の花火を一番美しく思えるようになりました。「ドーン‼」始まりの合図の一発に心の中で祈りを捧げ、大きくきらきらと輝く花火の輪に胸躍らせて年に一度の区切りをつけるのです。そして明日から又、何かしらの希望をもって生きようと何故かとても元気が湧いてくるのです。
たくさんの平和を願う思い、ありがとうございます。
企画・制作/北日本新聞社メディアビジネス局