富山県氷見市の稲積まちづくり協議会は31日、同市間島の余川谷研修館で「終戦の日の氷見(稲積)を語る」を開いた。地元の体験者らが開戦から終戦までの過酷な生活や飢えに苦しんだ日々を語った。住民約60人が耳を傾け、2度と戦争を繰り返さないと改めて誓った。
戦後80年にあたり、過去の教訓を未来のまちづくりにつなげようと企画。小学校5年生で終戦を迎えた上稲積の大橋豊一さん(90)と市博物館の廣瀬直樹学芸員が語り部を務めた。
大橋さんは1938(昭和13)年ごろから、父親が経営していたセメント工場の男性従業員に次々と召集令状が届き、「戦争でみんな出て行った」と話し、農家も漁師もいなくなり、子どもはとにかく飢えに苦しんだと回想した。「週に一回、バケツに入った泥だらけの小魚が配給され、くじ引きで取り合ったことが忘れられない」と振り返った。
氷見の海岸に上陸する米兵に立ち向かうためという教師の教えを信じ、等身大のわら人形に竹やりを刺して殺す練習をさせられたと言い、「本当に恐ろしい時代だった」と語った。
富山大空襲は氷見の海岸からも見え、「海岸線の向こうが真っ赤に染まり、焼(しょう)夷(い)弾があられのように降るのを子ども心にただぼうぜんと眺めるしかなかった」と話し、「もう戦争はこりごり。子どもたちのために絶対に避けるべき」と結んだ。
廣瀬学芸員は氷見の戦時産業などを紹介。木造運搬船を作る陸軍の指定工場があったことや竹製の戦闘機の燃料タンクを製造していたことなどを説明した。
同協議会の西塚信司会長(70)は「地元の語り部の身近で具体的な話を聞くことはとても有意義。後世に引き継ぐために今後も過去を学ぶ機会をつくっていきたい」と話した。
