プロ野球元巨人の長嶋茂雄さんが89歳で亡くなった。天覧試合でサヨナラ本塁打を放つ勝負強さや華麗な三塁守備で観客を沸かせ、プロ野球を国民的な人気スポーツに発展させた長嶋さんは、監督としても「メークドラマ」を合言葉に劇的な逆転優勝を果たすなど、ファンを魅了し続けた。
長嶋さんの代名詞「4番サード」が誕生したのは、高校時代のことだ。守備に悩んでいた長嶋さんに、監督が下した決断が原点だった。その監督は後にこう振り返った。「野球の歴史を変えた男だった」
憎めない人、気配りの人―。長嶋さんと時間を共にした人たちは、そんな言葉で「ミスター」を振り返り、しのんだ。(共同通信=東るい、髭敬、典略健佑、内海瑛作)
▽「ショート長嶋」が4度エラーした次の試合、「サード長嶋」が生まれた
「長嶋、代われ」。千葉県立佐倉一高(現佐倉高)の野球部主将だった長嶋茂雄さんを初めてサードで起用したのは、監督を務めた加藤哲夫(かとう・てつお)さん=2022年、91歳で死去=だ。体格や強気な性格を見極めた決断はぴたりとはまり、才能が開花。ファンを魅了した「サード長嶋」を生んだ。加藤さんは生前、取材に「野球の歴史を変えた男だった」と振り返っていた。
打撃センスは入学当初からずばぬけていた。加藤さんによると、練習では右中間の方向に100メートルほど離れた講堂の屋根をたびたび直撃、雨漏りさせた。「打球が普通の高校生と違った。真っすぐ飛び、ライナーでホームランになった」
一方、機敏で複雑な動きが求められるショートの守備に悩んだ。身長が伸びるにつれ、ミスが目立つようになり、1953年6月14日の練習試合では4度エラーをした。加藤さんは「変えるチャンス」と、同じ日の次戦でサードを守らせた。「4番、サード長嶋」が誕生した瞬間だった。