1頭のクマがつぶらな瞳でこちらを見つめていた。ここはアメリカのカリフォルニア州サウスレイクタホ。クマは、木々が生い茂る住宅街に建つ民家の玄関の約10メートル先にいた。隣家と隔てる柵のそばに横たわっている。じっとしている。最初は置物かと思ったほどだ。だがよく見ると、様子をうかがうように頭だけをわずかに動かしてきょろきょろしていた。
日本でクマによる被害が深刻化する中、ある人気映画に登場する「大物マフィア」も住んだこのアメリカの山あいにある湖畔の街でもクマの出没例が近年増えている。ゴミをあさったり、民家に侵入したりする事案が増えるが、クマは以前から人里近くに生息し、身近な存在でもある。ここで活動するクマ保護団体の代表は、人間とクマ双方の安全にとって「クマに恐怖を与えることが重要だ」と呼びかけ、住民にはエアガンを使って追い払うことも推奨する。保護する立場とはミスマッチにも思える訴えの真意とは。(年齢は取材当時、共同通信ロサンゼルス支局長 井上浩志)
▽クマからごみを守る「ベア・ボックス」
サウスレイクタホを訪れたのは11月。冒頭のクマに遭遇したのは、住民から目撃情報の連絡を受けた保護団体「ベア・リーグ」のボランティア、スコット・バイさん(63)に同行した時のことだ。バイさんはクマについて「おとなしいだろう」と私に語りかけ、何もせずにその場を離れた。連絡した住人が不在で、クマが人間に危害を加える様子もないので追い払う必要がないと判断したようだ。近隣住民も平然とすぐそばの道路で犬を散歩させている。クマの存在が日常の一部になっているらしい。
だがこのクマが人間にとって無害かというと、そうではない。バイさんによると、周辺によく現れる成獣3頭のうちの1頭だ。近くにある飲食店では屋外のごみ置き場があさられる被害が続いているという。周囲の住宅街では、鍵が付いた金属製の容器を自宅前に置いた民家もある。容器の呼び名は「ベア・ボックス」。ごみ収集のため自宅前に置くごみ箱が被害を受けないよう、容器の中に入れているのだ。
▽クマを追い払ったおばあちゃん
スコットさんはこの日、約5キロ離れた別の住宅街にも向かった。目的は、2日前にクマが自宅に侵入したという住民の女性に会うことだ。訪れると、民家の裏口の扉に大きな木の板が打ち付けられていた。
女性の名前はジャネット・ピーコックさん(80)。2日前の夕方ごろ、買い物から自宅に戻ると、裏庭にクマが2頭いたと振り返る。追い払うために大声を上げたが、1頭が「フー」と威嚇するような音を発したため退散。正面玄関から自宅に入ると、クマが廊下の先にある裏口の扉を壊して入ってきていた。大声を上げながら唐辛子成分入りのスプレーも噴射するとクマは出ていった。当時の心境をこう語る。「とにかく追い出さなければいけないと思った。怖くはなかった」
ピーコックさん宅にクマが入ったのは今回が初めてではない。2024年の夜中のことだ。ピーコックさんは、物音で目を覚まし、2階の寝室から1階のキッチンに下りるとクマがいたと説明した。玄関のドアを開けて大声を上げるとクマが立ち去ったと回想する。
▽「ベア・カントリー」
一帯はカリフォルニア州とネバダ州にまたがるタホ湖(面積約500平方キロ)のほとり。シエラネバダ山脈に位置し、豊かな森林が盆地を覆う。マフィア映画の金字塔「ゴッドファーザー」の「PART2」(1974年)では、アル・パチーノさんが演じる主人公マイケル・コルレオーネの邸宅がある場所として登場した。
一帯には、夏は避暑のため、冬はウインタースポーツを楽しむために多くの人が訪れる。カリフォルニア側はどことなく長野県軽井沢のような雰囲気。ギャンブルが合法なネバダ州側にはカジノが入った大きなホテルが並ぶ一角があった。
ベア・リーグは盆地内に200頭弱のアメリカクロクマがいるとみる。日本のツキノワグマに姿が似ており、体長は2メートルに達することもある。以前から人の生活圏の近くに生息しており、一帯は「ベア・カントリー」とも呼ばれる。サウスレイクタホにあるスキーやスノーボードのレンタル店の前には、クマの木彫り人形が多数置かれていた。この店で働くマシュー・スミスさん(41)は誇らしげに語る。「クマは地域のシンボルだ」。クマの排除を望む住民もいるが、多くは愛着を感じていると説明した。
ピーコックさんも、自宅に2度入られてもクマに対して悪感情を抱いているわけではなかった。「クマは生きるために食べ物を探しているだけ。共生はしたい」。だがクマを家から遠ざける必要性は実感した。そのため、ベア・リーグからある対策グッズを借りた。
▽クマが火事招くことも
ベア・リーグのバイさんがピーコックさん宅の裏口に設置したのは玄関マットのような形状の器具で、その名も「ベア・マット」。上に乗ったクマに電気ショックを与えて追い払う仕組みだ。