1941年12月7日(日本時間8日)、旧日本軍がハワイ・オアフ島南部の真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊や軍基地を戦闘機などで攻撃、日米開戦の発端となった。奇襲成功の裏には、艦隊の動向や警備体制を現地で偵察した海軍少尉・吉川猛夫によるスパイ活動があった。

 共同通信は開戦84年を前に、在ホノルル日本総領事館の臨時運転手で吉川と行動を共にした邦人男性に関する、アメリカ連邦捜査局(FBI)の捜査資料を入手した。吉川は生前、自身の活動について著書で明かしていたが、捜査資料は吉川の運転手という第三者の立場からスパイ活動の実態を描いている。既に公表されている日米の資料を交え、吉川らの暗躍に迫った。(敬称略、共同通信=新里環)

 ▽開戦への道

 日米開戦の当時、日本は国際的に孤立を深めていた。日本は1931年、関東軍が謀略を契機に満州(現在の中国東北部)を占領した「満州事変」を皮切りに、1937年に中国との間で全面的な「日中戦争」に突入。国際連盟を脱退し、1940年にはドイツ、イタリアと三国同盟を締結し、アメリカやイギリスとの関係が悪化していた。

 石油などの戦略物資を確保するため東南アジアに進出する南進政策を取った日本は、1941年7月にフランス領インドシナ南部(現在のベトナム)に進駐。事前に動きを察知したアメリカは、在米日本資産の凍結を発表し、日本への石油輸出の全面禁止を決めた。

 アメリカとの戦争を避けるための政府間交渉が進められていたが、11月には、中国とインドシナからの全面撤兵などを要求する覚書「ハル・ノート」がアメリカから突き付けられた。日本はこれを事実上の最後通告と受け止め交渉を断念、12月1日の御前会議で開戦を決定した。

 ▽奇襲成功のために

 日本海軍ではアメリカとの戦争に備え、連合艦隊の司令長官・山本五十六がハワイへの奇襲を構想。

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