大相撲の元横綱北の湖(本名小畑敏満、北海道出身)が日本相撲協会理事長在任中の62歳で死去してから、2025年11月20日で10年となった。1970年代半ばから最高位に10年以上も君臨。優勝24度は史上5位、21歳2カ月での横綱昇進は史上最年少記録として今も輝く。現役引退後は協会理事長を2度にわたって務め、令和の大相撲人気定着の礎を築いた。(共同通信=田井弘幸)
▽「横綱北の湖」の原点、ピンク色の電話で…
名古屋市熱田区の静かな路地を進むと「横綱北の湖」の原点ともいえる寺がある。境内に入ってすぐのところに、半世紀以上前の歴史を物語る石碑が光を放っている。
「うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」―。
74年7月の名古屋場所後、第55代横綱に昇進したばかりの北の湖の言葉だ。眺めていると、刻まれた碑の文字に思わず吸い込まれそうになる。
所属した三保ケ関部屋が名古屋場所の時期に長年宿舎にしていた法持寺の川口高風住職(77)は、北の湖の死去から一夜明けた朝のことをよく覚えているという。「あの碑のそばに菊の花がいくつも置いてあった。墓ではないのに、結構な数が手向けられていた。横綱が、それだけ多くの人々に慕われていたと実感した」と回想する。
「うん ほんまに…」にはセピア色の情景が浮かぶ。74年7月下旬、猛暑の盛りに寺で開かれた午前中の横綱昇進伝達式を終えると、北の湖は故郷の北海道壮瞥町に住む母に電話で昇進を報告した。
川口住職が、父で先代の川口高明氏(故人)から伝え聞いた話だ。新横綱は大きな本堂に腰を下ろすと、ピンク色の電話に小銭を何枚も入れた。携帯電話は当然なく、プッシュホンでもない。ダイヤルを「じーこ、じーこ」と回す音は昭和の日常を思わせる。
たくさんのセミが一斉に鳴く昼下がりだったという。母と話す北の湖の隣で聞いた高明氏がメモに書き残した言葉が、数年後に石碑となった。川口住職は「体の小さなご両親で、うちの寺にも来たことがある。お母さんは信じられなかったんだろう。『敏満、本当に横綱になったんか?』と聞いたようだ」と明かす。
▽北海道出身なのに関西弁。その理由とは
北の湖は土俵で倒した相手に手を一切貸さなかった。太鼓腹へと連なる分厚い胸を張り、ふてぶてしく肩をいからせて歩く姿は「憎らしいほど強い」と形容された。実は手を差し伸べて起こしてあげると、相手力士が哀れに映るとの気遣いが背景にあった。生前には「力士にとって、かわいそうだと思われることが最もつらいんですよ」と漏らしていた。
横綱昇進からほどなく第一人者として君臨し、貴ノ花や魁傑といった女性ファンの多かった人気力士の敵役にもなった。観客から「頑張れ」よりも「負けろ」という声を背中に浴びながら、挑戦者を淡々と退け続けた。人前ではめったに笑わず、むしろ怖い印象の方が前面にあった。そんな大横綱が番付の頂点を極めた若き日に、遠く離れた北海道に住む母親へ穏やかな口調で報告する。大きな手にはピンクの受話器。想像するだけで温かい気持ちになる。
石碑の言葉に疑問点が一つあった。北の湖は北海道出身なのに、なぜか関西弁であることだ。この発言に至るには、師弟の固い絆があった。
北の湖は13歳だった中学1年で上京し、三保ケ関部屋に入門した。複数の相撲部屋から勧誘を受けた中、当時はまだ弱小といえた部屋を選んだのは、三保ケ関親方(元大関初代増位山)のおかみさんが「足を冷やさないように」と黒い革靴を贈ってくれたことで、その気遣いに両親が心を打たれたからだった。一部では手編みの靴下と伝えられているが、北の湖本人が生前に「あれは革靴だ」と話している。
三保ケ関親方は兵庫県出身で普段から関西なまりの語り口調だったという。大相撲で師匠と弟子の関係は親子同然とされており、北の湖は13歳から一緒に生活しているうちに関西弁が耳慣れていたのかもしれない。川口住職は「親方は全ての弟子のことを、わが子のように下の名前で呼んでいた。そして北の湖も自分の父親のごとく、師匠をものすごく立てていた。何で関西弁かと思うが、師匠がそうだったから、そうなった」と目を細める。
▽父よりも師匠の葬儀。「答えは一つ」
北の湖が後に証言していたのは、入門当初から三保ケ関部屋の稽古場には竹刀や棒が一切存在しなかったことだ。
昔の角界では、いわば“愛のむち”が珍しくなかったが「うちのおやじ(師匠)は言っていた。『あんなものでたたいて力士が強くなるなら、なんぼでもたたく。でも、そうやない』と。だから一度もたたかれたことがない」と述懐していた。
一方で厳格さもあった。