人は1日に最大3万5000回の選択をして、スマートフォンを使うために約50回持ち上げ、1回の食事にかける時間は約30分…。私たちの生活には、そんなさまざまなデータが潜んでいる。文筆家の藤岡みなみさんが日々の暮らしの中にある「すうじ」に着目して、軽快なタッチで思いをつづっていく。

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 「あれれ、あなたかばんどうしたの」

 2人旅の途中、7歳の子どもがかばんを持っていないことに気づいた。あぁ、さっきの特急列車の中だ。普通列車への乗り換えが5分しかないと焦って、座席の上を確認せずに降りてしまった。どうしよう、財布や大事なものばかり入っている。この先も旅のスケジュールが詰まっているのに取り戻せるだろうか。心が大汗をかきはじめた。

 電通総研が行った生活や社会についての実感アンケートを思い出す。「自分には心の余裕(余力)がある」という項目に、そう思う、またはややそう思うと答えた人の合計は48・7%だった。心の余裕があると思っている人とないと思っている人は、だいたい半々ということになる。勝手な予想だが、8割くらいの人は私みたいに「心に余裕がないよう」と半泣きで生きている気がしていたので驚いた。

 こんな時こそ落ち着くことが重要だ。自分に言い聞かせる。旅にはトラブルがつきものだし、けがじゃなくて忘れ物でまだ良かった。これで今後は気を付けるようになるから、子どもにとってもいい経験かもしれない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 いいところに駅員さんが通りかかり、相談することができた。すみません、さっきの特急に荷物を忘れてきてしまいました。終点は岡山みたいなんですけど、どこかで保管していただけるのでしょうか…。憔悴(しょうすい)しながら質問していると、子どもがカットインしてきた。「僕たち今から高松に行きます。うどんを食べます。そしてその後、岡山に行きます。うどんを食べた後、岡山でかばんをもらってもいいですか」

 今うどんのことはいいから!と思いつつ、冷静さにちょっと感心する。ぐぬぬ、君は心の余裕がある51・3%の側なのか。少しは焦って反省してくれてもいいのだよ。結局、駅員さんが速やかに確認の連絡をしてくださり、晴れてわれわれはうどんを食べてからかばんを回収できる運びとなった。本当にありがとうございます。

 本場でおいしい讃岐うどんを食べるのが夢だった。香川県には人口1万人当たり5・08店の「そば・うどん店」がある。さすがうどん県、これは全国平均の2・6倍でダントツ1位だ。

 高松駅から程近いうどん店に直行した。「卵は自分で取るシステムなのかな」と話していたら、前に並んでいた男性がこちらのつぶやきに気づいたように、かすかにうなずいた。よくこの店に来る人なのだろうか。地元の方のさりげない優しさがじんわりとしみた。

 ついにありつけたそのうどんは、それはもう、胸にグッとくる味だった。特に、冷たい麺のコシに目を開いた。それはうどんに意志を感じるほどの弾力で、すすると思わず背筋が伸びる。よし午後も頑張るか、という気にさせてくれるのだ。このレベルのものが気軽に食べられるなら、週1回以上うどんを食べる香川県民の割合72・2%というデータにもうなずける。

 うどんでやっと心の余裕を取り戻した私は、岡山に向かう電車に乗り、早速きび団子のことを考え始めたのだった。(藤岡みなみ、第3週水曜に更新)

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