飲酒運転の「逃げ得」を決して許さない。北海道江別市の高石洋子さん(63)は22年間、そう声を上げ続けている。
2003年2月12日早朝、息子の拓那さん=当時(16)=が車にはねられて亡くなった。運転手の男は、事故前にバーで酒を飲んでいたが、飲酒に関する罪は適用されなかった。男が現場から逃げ、直後に逮捕できなかったためだ。酒が分解されるまで身を隠すことで飲酒運転の証拠を隠滅し、結果的に罪が軽くなる「逃げ得」がまかり通っていた。
倒れている拓那さんを通行人が見つけたのは、事故から約15分後。体には雪が積もっていたという。加害者がすぐに救急車を呼べば、温かい体に触れることができたかもしれない…。
高石さんの闘いが始まった。(共同通信=羽場育歩)
▽曲がった自転車
その日、拓那さんは早朝から新聞配達のアルバイトに出かけていた。午前6時ごろ、高石さんは警察からの連絡で息子の事故を知った。車で病院に向かう途中、規制線の先にぐにゃりと曲がった自転車が見えた。
病院の一室で目にしたのは、眠ったような黄土色の顔だ。ショックで動けなくなり、ベッドに寝かされた。夜になり、現場から逃げていた運転手の男が逮捕されたと聞かされた。
のちに刑事裁判で認定された事故の状況はこうだ。午前4時50分ごろ、男は手に持ったMDを選ぼうと脇見しながら時速約60キロで車を運転し、自転車で同じ方向に走行中の拓那さんに追突したが、救護措置をとらなかった。
拓那さんは持ち前の明るさで多くの人に慕われた。中学からバレーボールに打ち込み、高校では上級生の引退などで部員が自分だけになっても「辞めたら廃部になる」と練習を続けた。家族皆に愛され、一家に笑顔をもたらす存在だった。
気が付けば葬儀の日を迎えていた。苦しさのあまり火葬場には行けなかった。当時中学生だった拓那さんの妹は、後でこう言った。「拓ちゃんね、骨になってもかっこよかったよ」。一生懸命口角をあげて話す姿に、涙があふれた。
▽飲酒は認められない
警察から、男が事故を起こした経緯を聞くと、驚くべきことが分かった。事故前にバーで飲酒していたというのだ。警察は、男は飲酒を認めていると説明した。
実際、後に高石さん夫妻が損害賠償を求めて起こした民事訴訟で、男はビールやカクテルを飲んだと自ら語っている。事故後、同乗していた女性に「人をはねた」と告げていったんは現場に戻り、倒れて動かない人影を確認したとも。
しかし、男の罪を問う札幌地検の検察官が男を起訴した罪名は、道交法違反(ひき逃げ)と業務上過失致死罪。併合して最大で懲役7年6月となる。飲酒運転を立証できるなら、より刑が重い危険運転致死罪(併合して最大懲役20年、当時)での起訴も想定されたとみられるが、そうはならなかった。なぜなのか。
検察官は公判が始まる前、高石さんにこう告げた。「飲酒運転は認められませんから」。男が現場から逃げ出し、事故直後の血中アルコール濃度を測ることができなかったので、飲酒運転の立証はできない―。これが検察官の見解だった。
警察の捜査の過程では、バーでの注文伝票も見つかっていたが、立証にはつながらなかった。男と一緒にいた女性の注文も含まれ、男の飲酒量が特定できなかったのだ。
人事異動があり、新しく担当になった検察官は、懲役4年を求刑した。
結局、男には懲役2年10月の実刑判決が下された。判決が言い渡されると、検察官の唇は「勝った」と動き、傍聴していた高石さんらの前でガッツポーズをした。検察官は、実刑判決を得ることが難しいと考えていたのかもしれない。しかし高石さんは、そもそも飲酒運転が罪に問われないことに納得できないまま。検察官の行動は理解できなかった。
公判の後、高石さんの夫は検察官に問いかけた。「逃げたら軽い罪になるのは『逃げ得』じゃないか」。検察官は、当然だというように答えた。「そうです」。当時は、飲酒運転の上に逃走と、罪を重ねた男を罰する法律がなかった。