アイススケートをレジャーとして楽しんだ経験があるかどうかは、住む地域や年代によって大きく異なるだろう。屋外にリンクを作ることもできる北国を除いては、身近な場所にスケートリンクがあるか、通年で営業しているかなどにも左右される。
スポーツ庁の「体育・スポーツ施設現況調査」によると、屋内外のアイススケート場の数はスケートが冬のレジャーとして盛んだった昭和末期の1985年度に940あったが、2002年度に245、2021年度には208と減ってきた。
1976年に設立され、スケートリンクの運営管理に従事してきた「パティネレジャー」(東京都豊島区)は時代の移り変わりを見てきた会社の一つ。設計や運営、関連商品の販売などを通じ、現在では全国の約9割のリンクに関わるという。パティネレジャーの小林一志代表取締役社長にリンク運営の実情について聞いた。(共同通信=大島優迪)
▽昭和時代のスケートブーム 人気再燃の火付け役は浅田真央さん
スケートは娯楽の種類がまだ少なかった昭和時代にブームとなり、それに伴って屋内外のリンクも増えた。体育・スポーツ施設現況調査によると、1969年度の施設数392から約15年で2倍以上に増えた。
「他に遊びがないというのも確かにあったけど、聞いた話では例えば東京の晴海で冬に仮設のリンクをつくれば一日に何千人もの利用があるというような時期があった。冬はリンク、夏はプールというような施設が増えていった」
しかし、その後のバブル崩壊による景気悪化でリンクの閉鎖が相次いだ。スキーやスノーボードなど冬のレジャーの多様化もあり、ブームは定着しなかった。
「これは感覚でしかないけど、2000年前後、2006年のトリノ五輪の前までは競技として、そこまでフィギュアスケートが注目されていなかった。そういった時期もあって、なかなかリンクを新しくつくろうとか、アイスショーを見に行こうとか、そういったのも苦戦していた時代だった」