日本テレビが放送を始めた1953年8月28日、テレビコマーシャル第1号と目されるCMが流れた(ただし、フィルムが逆回しになってしまい、いきなり放送事故に)。

 それから70年余り。CMは商品を宣伝するだけでなく、時代を先取りし、流行を生み出してきた。どんな人が、どんな思いでCMを作っていたのか。数々の広告賞に輝く伝説的CMプランナー・小田桐昭さん(86)と共にたどる。(共同通信編集委員・原真)

生CMに手書き

 1938年生まれの小田桐さんは戦後、旧満州(現中国東北部)から故郷の北海道へ引き揚げた。石川県の金沢美術工芸大を卒業した1961年、広告会社の電通に入る。ポスターなどをデザインするアートディレクターを志望していたが、配属されたのはラジオ・テレビ企画制作局(通称「ラテ企」)。ラジオやテレビのCMを作るだけでなく、番組を企画することもあるセクションだ。小田桐さんは、生放送のテレビ番組に挟むCM用に、テロップやフリップを手書きする仕事から始めた。

 当時のラテ企の職員は、映画や演劇、音楽など他の業界から来た人たちだった。小田桐さんは振り返る。

 「流れ者の集団。広告の専門家は1人もいなかった。みんな手探りで、めちゃくちゃなことをやっていた。番組スタッフから『コマーシャル屋』とばかにされることもありました」

 グラフィックデザインをやりたかったので、一時は会社を辞めることも考えた。だが、テレビが急速に普及して、広告も瞬く間にテレビがメインになり、CM制作現場は活性化していく。小田桐さんは、企画した精工舎(現セイコーグループ)のCMが広告業界で最も権威のあるACC賞グランプリに輝き、電通に残ることに。

新しい文化をつくる

 小田桐さんによれば、欧米のCMは伝統的なグラフィックデザインの作法で、視聴者を言葉で説得するように作られていた。

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