二歳の冬を迎え、娘はさらに成長してゆく。赤ちゃん時代の最後の名残だったおむつも少しずつ取れ、自分でトイレに行けるようになってきた。
この頃には、私が寝かしつけに読んで聞かせる絵本も、音声のリズムを楽しむものから、簡単な筋や内容のあるものになってきた。
とくに日本の昔話を二十話まとめてある本を、今日は桃太郎、明日は金太郎という具合に読み聞かせてゆくのが習慣になった。物語そのものを知り、楽しむこともさることながら、昔話を通じて、囲炉裏、薪取り、つづら、蓑、といった、現在は見られなくなった遠い祖先の営みや生活用具に親しむことは、文化的アイデンティティーを育むのにとても大切なことだ。
そして、金太郎が木を抱え倒して橋を架けたり、猿蟹合戦で蜂が水甕から飛び出してきたりといった物語の細部から、遠い日に私自身が母に読み聞かせてもらった時の印象がまざまざと甦ってきた。昔話の読み聞かせというのは、思った以上に濃密な、心の深みに関わる営みなのだ。
「メルちゃん」という人気のお人形のお世話をして遊ぶのも大好きだ。女の子の赤ちゃんという設定のメルちゃんにお着替えをさせ、一緒にお風呂に入り、小さいタオルを布団に見立てて寝かしつける。自分がしてもらっていることをそのまま「してあげる」ことが楽しいのだろう。
言葉もそうだ。三歳近い娘が盛んに話していることは、自分が思ったことというよりは、誰か(多くは大人)の真似であり、真似ることで、何かしら満足感を得ているように見える。それが、ひとつの問題を引き起こした。
二月、節分が過ぎたある晩、娘は妻のところに行って「お父さんがカプラでお股をチクチクする」と訴えた。カプラは小さな木の板を組み合わせていろんなものを作る玩具だが、当然私には何の覚えもない。ただ、その日保育所に迎えに行ったとき、たしかにカプラがそこにあって、先生と遊んでいた。保育所で年上の子などに嫌なことをされて、それを父親の私に置き替えて訴えているのではないかと心配になり、保育所に相談した。保育所では、職員や子どもたちにその日の状況を聞いてみたが、問題になるような事実は確認できなかったとのことだった。
それからしばらくして、今度は土曜保育から帰った後、「ユリコ先生が、悪い子には痛いことするって言った」と訴えてきた。「ユリコ先生」とは聞き覚えがなく、土曜日によその保育所から来た先生が、子どもを脅すようなことを言うのかと心配したが、どうもよくわからない。保育所に聞いても、思い当たることがないという。逆に、娘の方が、嘘を言ったり、何かを人のせいにしたりするようになってきているのではないかと、不安になった。しかし、そうだという証拠もない。結局、この年頃の子どもの言葉が、どこから、何を求めて発せられているのかを見極めることの難しさを痛感することになった。
それからしばらくして今度は、「保育所で○○ちゃんに怒られる。○○ちゃん怖い」と訴えてきた。今度はすぐに想像できた。一人っ子でのんびりしている娘に対して、同い年のその子はきょうだいがいて、身の回りのことを自分で手際よくこなすことに長けている。それで、娘の様子を見ていて歯がゆく、「もっと早く、もっとちゃんとしないとダメ」と、責めるように言ってしまうのだろう。
娘にとって避けて通れない試練だ。事実上一人っ子だった私も通った道だ。頑張れ、と祈るしかない。
ちちははを豊けき森と恃みつつ保育所の野をひとり闘へ
◆高島 裕(たかしま・ゆたか)◆
1967 年富山県生まれ。
立命館大学文学部哲学科卒業。
1996年「未来」入会。岡井隆氏に師事。
2004 年より8年間、季刊個人誌「文机」を発行。
第1歌集『旧制度』(第8回ながらみ書房出版賞受賞)、『薄明薄暮集』(ながらみ書房)などの著書がある。
第5歌集『饕餮の家』(TOY) で第18 回寺山修司短歌賞受賞 。
短歌雑誌『黒日傘』編集人。[sai]同人。
現代歌人協会会員。