インスタグラムを開けば、映えに最適化された完璧な写真や動画が流れてくる。目を引く映えグルメ、おしゃれなカフェ、愛らしい子猫……。私の日常との程遠さにくらくらしてくる。

撮影:山本春花

 昨年11月、旅行で9年ぶりに富山を訪れた。ちょうど北陸は香箱ガニの季節。神通峡を望むホテルでのんびりした後に、富山駅周辺を観光して金沢に移動する予定だった。富山城址公園から程近い美乃鮨のランチにも足を運び、とても良い時間を過ごした(富山出身のソプラノ歌手・高野百合絵さんに教えていただいたお店だ。ちなみに私は高野さんのインスタが大好きである)。

 ただ今回お話ししたいのは、富山駅の構内に設置されたストリートピアノのことである。グリーンを基調に、植物や海の生き物などの鮮やかなペイントが施されたグランドピアノ。弾き手不在のピアノに近づいたのは、同伴していた私のパートナー。実は彼、作曲家で、2歳から始めたピアノ歴は30年近くになる。

 彼が手慣らしでゆっくりと「きらきら星」を弾くと、近くにいた3歳くらいの子どもが「おーおーあーあー」と一緒に歌いはじめた。おお、これは好感触。

 現代音楽の作曲家として活動する彼は、メジャーな映画やドラマ作品、ヒット曲のアレンジにもかかわっている。こんな風に大っぴらに弾いていたら誰か気づくのでは……と私は気もそぞろに辺りを見渡す。しかし、さすがに「きらきら星」ではわからないのか、子ども以外誰も近づいてこない。

 気が大きくなったらしい彼は、何やら楽譜を検索し始める。なになに……「浜辺のアインシュタイン」?

 アメリカを代表する作曲家、フィリップ・グラス。「浜辺のアインシュタイン」は、彼の最も有名な作品だ。私たちは神奈川県民ホールで演奏された公演を観たばかりだった。めくるめくような器楽のグルーブ、早口で数字や「ドレミ」を唱える合唱隊。一度観たら忘れられない大胆で中毒性のあるオペラである。それを今、平日昼下がりのストリートピアノで再現しようというのだ。まったく狂ってるぜ。

 かくして、駅に響き渡る異様なアルペジオ。速度を上げながら幾度も転調を重ねていく。だが、その異質さに引いてしまったのか、とうに親子連れもいなくなり、周囲は閑散として、駅のチャイムが虚しく鳴るばかり。ついに我々は笑い出してしまった。結局、ピアノの前にいたのは最後まで私たちだけだったのだ。

 YouTubeでこんな動画を観たことはないだろうか。冴えないサラリーマン風の青年が、おもむろにストリートピアノを奏で始める。アニメの主題歌などをプロ顔負けの華麗な速弾きで披露するのだ。「!」と驚いた顔で立ち止まる人々をアップで映し出し、聴衆の数が増えていく様を印象づける。

 ストリートピアノで「浜辺のアインシュタイン」を弾くことは、こういったドッキリ系バズ動画への密やかな抵抗なのだ。パートナーの演奏を撮影しながら、私は泣き笑いした。この上なく面白い遊びなのに、誰1人振り返らない。いかに我々の感覚が世間とずれているかを再認識させられる。

 そんな我々に「SNS映え」は難しすぎる。誰が見ても美しく、誰が見てもほっこりできて、誰が見ても「泣ける」話。そういう投稿が「バズる」のだから。

 旅行から戻ってもつい観てしまうのは、やはり富山駅で撮影したストリートピアノの動画だった。猫背で「浜辺のアインシュタイン」を弾く男の姿に何度も見入る。相変わらず面白い。「ストリートピアノでバズらない」というタイトルで今すぐ動画を投稿したいくらいだ。

 ……いや、やっぱりやめておこう。2人だけの面白動画にしておきたい。私たちの中で最大の「バズ」を叩き出したこの動画には、〝いいね〟も〝チャンネル登録〟も不要なのだ。

文月 悠光(ふづき・ゆみ)/詩人。1991年北海道生まれ。16歳で現代詩手帖賞を受賞。高校3年のときに発表した第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)で、中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。詩集に『わたしたちの猫』(ナナロク社)、エッセイ集に『臆病な詩人、街へ出る。』(新潮文庫)など。6年ぶりの新詩集『パラレルワールドのようなもの』が思潮社より好評発売中。