受賞者インタビュー

読後に温かさ

入賞・福永真也さん

福永真也さん(写真)

作品の参考にしたというヒマワリ畑で「夏に来て、一面に広がる花が印象に残った」と話す福永さん=愛知県南知多町の観光農園花ひろば

プロフィル

ふくなが・しんや 1981年愛知県生まれ。愛知県立東海南高校卒。

 飲食店などでアルバイトをしながら、夏に短編小説を書き上げる。20代半ばから11年間、そんな生活を続けてきた。5年前の48回で選奨を受けたが、以降は良くて3次選考止まり。前回は1次すら通らなかった。「北日本文学賞に出さないと、きっと書くことをやめてしまう。賞を取ることよりも、1年に1回、納得したものを書きたいと思ってやってきた」。爽やかな笑顔に心の強さをにじませる。

 受賞作は、弁護士事務所で働く青年が主人公。他人の土地に種を蒔いた叔父を警察に引き取りに行く場面から始まる。青年は母を亡くしてから父とぎくしゃくし、父は母の弟である叔父にどこか遠慮がち…。“疑似家族”のような男性3人の距離感や心理を描き出し、地元選考会でも「人物造形やアイデアが面白い」と高い評価を受けた。

 民話の「花咲かじいさん」から着想した。空き地などにこっそり種を蒔いて花を咲かせる「花ゲリラ」という言葉を核にして執筆した。「絵に例えると、完成した作品にはデッサンの線が1本残っているかどうか」と言うほど、推敲(すいこう)を重ねるタイプ。2日ほどで書いた初稿をほぼ1カ月かけて手直しし、締め切り当日に郵便局に駆け込んだ。

 書き手として心掛けているのは、読後感の温かい小説にすること。「特に北日本文学賞はお正月に読まれる。新年を暗いものにはしたくない」。作品には、一面に広がるヒマワリ畑など、心和む光景を織り交ぜた。主人公が道端に咲くピンクの花に叔父の存在を感じるラストシーンで、読者に希望を抱かせる。

 小説を書き始めたのは2008年。大ファンだという宮本輝さんの新作をインターネットで調べていたときに、北日本文学賞の選者を務めていることを知った。「ノートにメモ程度」の文章しか書いたことがなかったが「自分の作品を読んでほしい」と一念発起して応募し、いきなり4次選考まで残った。

 創作を支えているのは「多いときには月に20冊ほど」という膨大な読書量だ。中学時代に原田宗典さんの短編と出合って小説の面白さに目覚め、高校生の頃は授業中でも教師に隠れて本を読んだ。文章修業の経験はなく、同人誌活動とも無縁。好きな作家や作品の構成を参考にしながら、独学で筆力を磨いてきた。

 長く続けてきたアルバイト生活に一区切りを付け、昨年12月から介護の勉強を始めた。介護士の資格を取り、春からは現場で働く予定だ。今回の受賞で北日本文学賞からも“卒業”する。「書きたい題材はいくつもある。次の目標は模索中ですが、多分これからもずっと書き続けます」

被爆体験が下敷き

選奨・石井渉さん

石井渉さん(写真)

いしい・わたる 1938年広島市生まれ。広島の爆心地近くで被爆し、小中学校は通えなかった。ジャズミュージシャン。現在、大阪文学学校に通っている。

 広島の爆心地近くで被爆し、大やけどを負った実体験が受賞作の下敷きになっている。現在80歳。戦後74年たつ今も後遺症で強烈なかゆみに襲われる。「戦争はまだ終わっていない。原爆の恐ろしさを、生きているうちに伝えなければ」との強い思いが筆を走らせた。

 「ピカドンと天使と曼珠沙華」は、原爆で家族を失った浮浪児たちの姿を描いた。主人公は自らがモデル。物語に象徴的な存在として登場する、背中に割れたステンドグラスが刺さった少年をはじめ、多くのエピソードが実話という。

 若い人にも読んでもらいたいと、惨状を伝える描写は極力抑えた。どこか明るくも感じる主人公の語り口が逆に悲惨さを際立たせる。

 戦争の影響で、小中学校に通えなかった。本格的な読み書きを学んだのは65歳で、大阪文学学校に入学してからだという。全国公募の文学賞への挑戦は今回が初めて。寝る間を惜しんで書き続けてきた。

 「小説に出会って人生が変わった。選奨受賞を励みに、今後は長編にも挑戦したい」とさらなる意欲を見せた。

光見いだす姿描く

選奨・関野みち子さん

関野みち子さん(写真)

せきの・みちこ 1948年大阪市生まれ。龍谷大文学部卒。会社顧問。

 9度目の応募にして選奨を受賞した。これまでの最高は3次選考通過。「熱心なファンである宮本輝さんの目に留まっただけでうれしい。まだ気持ちの整理がつかない」と喜びを隠さない。

 「穴の底の」は、日雇い労働者の街として知られる大阪・西成でたこ焼き屋を営む還暦の女性が主人公。単調な作業を繰り返す日々にうんざりした女性が、自らの境遇と重なる母子家庭の少女に出会い、光を見いだしていく。

 西成は、20歳まで過ごした自らの故郷。父親は縫製の仕事をしながら4人の子どもを育て、大学へ進学させた。リアリティーのある描写は、自らの実体験があるからこそ。「あの当時、あの場所で子どもを大学まで行かせるのは大変なことだった。天国の両親も喜んでくれているはず」

 子育てしながら地域情報紙を発行する会社に勤め、60歳で一線を退いたのを機に小説を書き始めた。「書いている時が一番充実している。これからもライフワークとして取り組んでいきたい」と語る。